第13話
1944年7月30日、トップ船長は神戸にある川崎造船所において、感慨にふけっていました。
トップ船長と共に来たドイツ人の船員達も同様でした。
先日、最後の欧州から日本への日本兵の帰還任務を済ませたことから、シャルンホルスト号は美しい本来の姿を取り戻すことになりました。
戦時中の迷彩塗装等を、平和時に相応しい美しい塗装に塗り替え、また、民間の乗客が乗るのに相応しい船室に改装する等、様々な作業が必要でした。
ですが。
哀しいことに、シャルンホルスト号が生まれたデシマーク・ウェーザー造船所は、連合国軍の空襲により大被害を受けており、とてもそのような作業を受けられる状況ではありませんでした。
また、仮にデシマーク・ウェーザー造船所が、シャルンホルスト号の改装等の作業を受け入れられたとしても、そのための物資調達が、ドイツ国内の状況から困難をきたすのは明らかだったのです。
そのために。
この改装作業は、日本政府の斡旋もあり、川崎造船所が引き受けることになったのです。
皮肉なことに、川崎造船所はシャルンホルスト号が神鷹丸となった際に、戦時向けの改装を行った場所でもありました。
だから、ある意味、良かったともいえるのかもしれません。
川崎造船所は、シャルンホルスト号が神鷹丸になった時に行った改装作業の記録を、後で参考になるかもしれないという理由から、克明に遺してくれていました。
また、現在まで伝えられている半伝説めいた話によると、シャルンホルスト号から降ろされていた多くの品々が、大事に川崎造船所の一角で保管されていたとのことです。
そのために。
この時、奇跡的に戦禍の中を生き延び、また、シャルンホルスト号に乗り込んでいた厨房員の一人は、感泣しました。
かつて、自分が料理を乗客に提供する際に使用していた豪華なマイセン陶磁器の皿やカップのセットが、歳月を経たことから、多少は古びたとはいえ、シャルンホルスト号の中に戻されていたからです。
他にも降ろされていた絵画や、その他の船室に備え付けられていたベッドやタンス等の多くが、シャルンホルスト号に再度、備え付けられていました。
言うまでもなく、外観もかつての優美な姿をシャルンホルスト号は取り戻していました。
シャルンホルスト号は、欧州と極東を結ぶ航路に再就役する準備を整えることが出来たのです。
とは言え。
この時点ではスチュワード等、顧客サービスを行う乗務員がほとんどいない状態だったこともあり、新生が叶ったシャルンホルスト号は、神戸からブレーメンの港までは貨物だけ積んで還ることになるのですが。
それでも。
シャルンホルスト号は、1944年10月30日に、ブレーメンの港から横浜港への航路再就役を果たすのですが。
その出航前に、北ドイツ・ロイド社は、シャルンホルスト号が無事な姿を取り戻したことを、新聞記者達に公開して、改めてのお披露目をしました。
その時、多くの新聞記者が目を見張り、完全にシャルンホルスト号が、元の美しい姿を取り戻したことに感激し、更にその新聞記事等を読んだドイツの人々にも感動を与えたとのことです。
更にその記事は、ドイツ以外の国々でも読まれました。
そのために。
第二次世界大戦が終わったことから、日本の新田丸級が極東と欧州とを結ぶ航路に参入してきましたが。
シャルンホルスト号は、それに対して互角以上に顧客を掴むことが出来ました。
シャルンホルスト号よりも新田丸級の方が新しく、内装等もほぼ互角だったのですが、あのシャルンホルスト号に乗りたい、と顧客になる多くの人々の心を掴めていたからです。
シャルンホルスト号は、北ドイツ・ロイド社の立て直しに多大な貢献をしました。
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