第12話
この日本陸軍の将兵の輸送作戦が、無事に成功裏に終わったことは、シャルンホルスト号の周辺の事情に、明るい影響を与えました。
この後、日本政府は、シャルンホルスト号の運航の際に、ある程度は北ドイツ・ロイド社がドイツ関係の物資を運ぶのを認めてくれるようになったのです。
勿論、日本軍関係の人員、物資の輸送が最優先なので、少量しか北ドイツ・ロイド社もドイツ関係の物資を運ぶことはできません。
でも、ドイツ関係の物資を運ぶことができる、というのは、北ドイツ・ロイド社の関係者にしてみれば、喜ばしい話でした。
そして、トップ船長やその部下達にも明るい影響は及びました。
細かく言えば、密輸行為で許されない話ですが、何しろ敗戦直後の混乱期にあり、ドイツの人々の多くが食うに困っていた、というのが当時の現実でした。
トップ船長の娘の同級生複数が闇仕事に従事せざるを得ない、という話を、トップ船長自身も妻子から、この当時は何度も聞かされる有様だったのです。
だから。
手荷物品という名目で、私物として持ち込めるカバン、リュックの中身は食料品をできる限り、積み込んで運ぶというのが、シャルンホルスト号に乗り組んでいる船員達の実情でした。
本来なら、それを取り締まるというか、叱らねばならないトップ船長も、そういった行為を黙認し、自身も行わざるを得ない有様でした。
こういった行為について、日本の関係者は、見て見ぬふりをしてくれるようになったのです。
勿論、見て見ぬふりというだけで、大っぴらにできるという訳ではありません。
それでもトップ船長ら、ドイツ人の船員の面々にしてみれば、有難い話でした。
それによって運び込むことが出来る食料品によって、家族や知人を食べさせることが出来るからです。
悪いことは分かっている、でも、生きるためにはやむを得ない。
そう悩みつつも、トップ船長らは、日本の関係者の好意に甘え、食料品を運んだのです。
そして、1942年の春から1943年の秋にかけて、基本的に日本とドイツを往復する日々を、トップ船長とその部下達は、シャルンホルスト号と共にすごすことになりました。
トップ船長は、ドイツからしばらく離れては、また帰国する日常を過ごしたため、却ってドイツが復興していくさまがよくわかりました。
ずっと住んでいたら、日常的過ぎて却って分からなかったでしょうが、2月余り離れてから、改めて見るので、よく分かったのです。
そして。
1943年秋、第二次世界大戦は、連合国の勝利により、事実上終結しました。
それに伴い、欧州で対ソ戦に従事していたほとんどの日本兵が祖国日本に還ることになりました。
当然、シャルンホルスト号もその任務に充てられることになり、トップ船長とその部下達はその任務に従事することになりました。
サンクトペテルブルク等の港に、シャルンホルスト号は錨を下ろして、日本兵を乗せて、祖国日本へと彼らを運んだのです。
この時点で、約50万人の日本兵が欧州戦線におり、彼らが完全に帰国できたのは、1944年の春のことになりました。
そのために、シャルンホルスト号の中で1944年のお正月を迎えた日本兵もいました。
その時、彼らのために様々な協力を得て、シャルンホルスト号の厨房員はお雑煮をふるまったそうです。
まさか、ドイツの貨客船でお雑煮が出るとは、と乗船していた日本兵達は感激し、多くの日本兵がチップという名目で、下船時に多額のお金を渡した、という逸話があります。
シャルンホルスト号の船員たちのかつての暖かいもてなしの心が、トップ船長の下で、脈々と受け継がれていた証です。
そして、シャルンホルスト号の軍事輸送任務は終わったのです。
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