第1話
「サムライー日本海兵隊史」の外伝になります。
ドイツ最大の海運会社にして、世界でも五指には入る大海運会社、ハパックロイド社の本社の玄関の一角には、ある貨客船の銘板が大事に飾られているのを、あなたは知っていますか。
その銘板は、ハパックロイド社の前身の一つである北ドイツ・ロイド社が、かつて世界に誇った貨客船シャルンホルスト号の銘板です。
シャルンホルスト号は、第二次世界大戦に巻き込まれ、数奇な運命をたどった貨客船です。
そして、そのシャルンホルスト号の初代船長を務めたトップ船長は、シャルンホルスト号の最後の航海の際には船客として乗船しており、最初の航海と最後の航海を見届ける等、様々に関わりました。
トップ船長を主な語り手として、シャルンホルスト号の生涯をたどってみたいと思います。
「機関長、機関の具合はどうだ」
「万全です。処女航海に出る準備は整いました」
「よし」
1935年4月30日の朝、トップ船長は、上機嫌でした。
第一次世界大戦の際、ドイツ帝国海軍の若手士官だったトップ船長は、第一次世界大戦後のドイツの軍縮に伴い、海軍を退職して、北ドイツ・ロイド社に就職しました。
そして、20年近く懸命に仕事に励んだ結果、シャルンホルスト号の初代船長に抜擢されたのです。
北ドイツ・ロイド社は、来年、1936年に開催されるベルリンオリンピックを前にして、ある意味、社運を賭けての豪華貨客船3隻の建造を、一昨年の1933年に決めました。
それから約2年が経ち、その一番船として、シャルンホルスト号は誕生したのです。
この時、北ドイツ・ロイド社は、二番船としてグナイゼナウ号を、三番船としてポツダム号を竣工させる予定で、順調に建造が進められていました。
更に言うならば、この豪華貨客船の三姉妹には、ドイツの国威発揚の場であるベルリンオリンピック開催に際して、錦上花を添える役割をできたら果たして欲しい、とさえドイツの一部の人達は思っていました。
実際、シャルンホルスト号は素晴らしい船でした。
この当時の日本の貨客船ではまだ採用されておらず、橿原丸級貨客船や新田丸級貨客船で、ようやく採用された様々な新型技術が、シャルンホルスト号では採用されていたのです。
今となっては、当たり前の技術ばかりに思われそうですが。
例えば、自動操縦装置が装備されていました。
また、電話も自動交換機が整えられていました。
機関の遠隔操作も可能になっていました。
また、電気推進方法の採用、電気溶接の多用等、ドイツの造船技術の粋が集められてもいたのです。
だから、トップ船長が誇りをもって職務に励むのも当然の話でした。
また、このように期待を寄せられた貨客船ですから、当然、船員も選りすぐりです。
世界の誰が見ても恥ずかしくない見事な処女航海を果たさねば、と船員の皆が想い、トップ船長の下で団結して処女航海に赴くことになりました。
そして。
1935年4月30日、当時のドイツ政府の要人までが見送る中、ブレーメン港を出港したシャルンホルスト号は、見事な処女航海を飾ることに成功しました。
それまでブレーメンから上海までは52日掛かっていたのを、34日と約3分の2に短縮したのです。
事前計画通り、といえばその通りだったのですが、その計画を聞いた世界中の多くの人が、最初はそれはさすがに無理だろう、と思っていたことだったのです。
そして、当初の予定通り、トップ船長の指揮の下で、横浜にまでシャルンホルスト号は航海に成功し、その後はブレーメンと横浜間の定期航路に従事することになりました。
更に、シャルンホルスト号の妹船達、グナイゼナウ号やポツダム号も相次いで竣工し、ブレーメンと横浜間の定期航路に就航することなりました。
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