マリオネット - 第2話
●
そこは、真っ暗で、じめじめとしていて、どこか足元もぬかるんでいる――真夜中の山道のような場所だった。
もちろん、山『道』というのは比喩だ。見る限り、周囲には木々も無ければ石ころもハミ出た根っこも無い。
というより、何も無い、と表現するのが手っ取り早い。
前後左右、どこを見回しても真っ黒。手を伸ばしても何も掴めない。ただ、自分の直上から、まるで舞台役者を照らすようにスポットライトがあてられていて、私の影が360°、弧を描くように幾重にも足元に浮かび上がっている。
《やぁ、こんばんは、坂田雨月》
声が聞こえた瞬間、私はため息をついて頭に手を遣った。やらかした。迂闊だった。拾ってきたあの人形――「この程度なら」とタカを括って、そそくさと寝た結果が、これだ。
《申し訳ないけど、キミの体は私が貰うよ》
正面、先ほどまで真っ暗だった空間に、私の頭上からあてられているものと同様のスポットライトが照らし出したのは、雨のごみ置き場に捨てられていた、あの『人形』だった。『人形』と言っても、その背丈は私と同じくらいだ。薄汚れた真ピンクのワンピースに、腰までのチリチリになった長髪。ヒビ割れ、顔面の半分が崩れている不気味な面相に、普通のOLなら悲鳴の一つも漏らすのだろう。
だが。
私は小さく首を振りながら、ゆっくりと歩き始めた。まずスポットライトを浴びる人形から遠ざかるように――人形に背を向けて、一歩、二歩、三歩。前方に手を突き出して、何かに触れないか確認してみる。
《おっと、逃げようとしたって無駄だよ》
違ェよ、と言いたくなった。が、無視してもう数歩。何かに突き当たる。どうやら、見えない壁があるらしい。
《ここは現実とは隔絶された異次元の空間だ。条件を満たさない限り、キミは現実に戻れない》
異次元。
《ん? ……おい、おいおい。なんか今ちょっと笑った? 笑ったな? ちょっ、おい、無視すんなってば、なぁ!!》
私は人形の言葉には応えず、壁に手をついたまま周囲をぐるりと歩いた。後方だけでなく左右にも壁がある。おそらく、人形の後方にもあるのだろう。歩数から換算して――。
「あの真ピンクの箱の中、かな」
《おーい! おい! 聞こえてるかー聞こえてるよなー!? 無視はやめろ! 性格悪いぞ、なぁ!!》
「あ?」
《ふん、やっとこっち向い……やめろやめろなんだその目つき。もしかして話の通じないタイプの人類か? そうなのか!? だが残念だねえ。キミがどれだけ乱暴なアウトローでも、この空間に来た以上、私の定めたルールに従ってもらうよ》
アウトロー。
なかなか的確な喩えだ、と私は胸中で笑った。確かに、私は除霊師としては無調法者と蔑まれるべき人間だろう。私はボスや晶穂たちとは違う。既に述べた通り、名も知れぬどこぞの御仁や御令嬢が霊障で苦しもうが悶えようが――命を落とそうが――私にとっては至極どうでもいいのだ。そこまでの矜持や覚悟を以て仕事に臨んでいるわけではない。だから、自分から積極的に魑魅魍魎と絡むつもりはないし、そのスタンスを変えるつもりも毛頭ない。
だが。
「私の定めたルール、ねぇ」
こうして、喧嘩を売られた場合は、別だ。
「従わないとどうなるって?」
《キミは永遠にこの闇の空間から抜け出せない。気も狂うような長い年月をここで過ごすことになる》
「嘘ばっかり」
《何だって?》
「確かにあなたは私の意識を捉え、この異空間に引きずり込んだ。だけど、あなたに出来たのはそこまで。
あなたは私の意識――生命力と言い換えてもいいかしら――を捕食するには至れていない。あなたのような独立した霊的存在にとって、他者の生命力は活動の根幹を為す重要なエネルギー源の筈だから、本来なら貪り食いたいところでしょうにね。何故かしら? 答えは簡単。『私が強すぎて食らいつけなかった』から。どう、ここまででどこかご指摘は?」
スポットライトの下で、人形は片目でじっと私を見つめていた。見据えていた。いや、睨んでいたというべきか。いずれにせよ、実に情けなくて滑稽だ。
「ああ、大丈夫よ。落ち込まなくても大丈夫。私、こう見えて、人生の半分は除霊師として過ごしてるから、あなた程度の雑魚が食いつけなくても、まぁ……仕方ないんじゃない? でも、だから大体分かっちゃうのよね。仮にこの空間で私があなたに従わないまま時間が過ぎると、どうなるか。あなたに残った霊的エネルギーは枯渇し、やがて私を捉えることすらままならなくなる。つまり、あなたは何も出来ずにこの世から消滅する」
《……もしかしなくてもキミ、性格悪いな? よく言われるだろ? なぁ?》
「お生憎。よく気の利く良い美人、って評判です」
これは嘘だ。ボスからはよく「性格が根元から捻じ曲がっている」と言われる。異論はない。
「それと、もう一つ。あなた、残ってる活動エネルギーもかなり少ないでしょう? でなければ、わざわざこうして私の意識を捕らえて、名前を含む情報を読み取って――つまり、私が除霊師であることを知った上で、それでも喧嘩を売ろうなんて思わない筈よ。よっぽど切羽詰まってるか命知らずのお馬鹿さんでもない限り、そんなの避けたい行動だものね」
私に喧嘩を売ろうが売るまいが、明日になれば専門の除霊師のもとへ連れていくつもりだったのだから、いずれにせよ人形の死は決定事項だったのだが、それは言うまい。私は再びスポットライトの射す地点へと静かに戻った。
「それで? この『現実とは隔絶された異次元』とやらで、あなたは何をして遊びたいの?」
厳密には『異次元』などではない。この場所は、あの薄汚れた真ピンクの箱の中に、崩れかけた人形モドキが展開した領域――一種の結界の内部、と呼ぶのが正しいだろう。数十年レベルで修業した魔術師でもない限り、『異次元』など、そうそう創り出せるものではないのだ。
《遊び、ね。キミ、イチイチ逐一トゲのある言葉を遣うね? ……だけど、いつまでその余裕は続くかな?》
人形は引き笑いをした。私もにっこりと笑い返した。
《三つだ》
人形は右手を私に伸ばして見せた。球体関節に黒いシミが覗くその手で、相手は指を三本立てる。
《もしキミが、私の正体についての三つの事柄を言い当てることが出来たら、私はキミを解放しよう。しかし、もし言い当てられなかったら――何度も言うようだけれど、キミの体は私が貰うよ》
「信じられないわ」
《ふっふっふ、なかなか興を注がれる趣向だろ? じゃあ早速……ん、何だって?》
「信じられません。悪党の言うことを『はいそうですか』なんて直ぐに受け入れられる? ガキじゃあるまいし」
わざとらしくため息をついてやると、数メートル先に立ち、スポットライトを受ける人形は、伸ばしていた右手をぐっと握った。相手は非難するように言う。
《本当に性格が悪いなぁ、キミ! 敢えて空気読まないタイプ? 嫌われるぞ? そんな調子だとさぁ!》
「余計なお世話です。それで?」
それで、というのは、一種の催促だ。こういう場合――つまり、ある種の魔術・呪術的知識を持つ者同士が、特定のルールに則って対峙する場合――取り交わされるモノがある。
《分かったよ、分かりましたとも。いま私が述べたルールは『契約』だ。遵守すると誓おう。但し――》
「あなたが契約だと告げたのだから、当然、私もそれに準じます。つまり、あなたに対して三つの事柄を言い当てることが出来なかったら、その時は――」
《――キミの体は私のもの。うーん、フェアだ。フェアこの上ない取り決めだね。なぁ?》
はいはい、と適当に返しながら、私は胸中で吐き捨てていた。何がこの上ない取り決めだ。勝手に人の意識を吸い込んで自分の土俵に誘い込んで『フェア』とは、図々しいにも程がある。だが、『契約』という言葉を引き出せたのは幸先が良い。
古今東西、聖邪問わず、勝負事において『契約』として取り決めがなされると、そこには一種の強制力が働くものだ。つまり、『その契約を破ってはならない』、という鎖である。それがどこからやってくるものか――対峙する両者が無意識的に魔術的なリソースを共有するためか、それとも万有引力やエントロピーなどと並ぶこの世の法則に則ってのものか――それは分からない。が、とにかく、これで人形はルールを遵守せざるを得なくなった。これは破ろうとして破れるものではない。そう契約をしたのだから、相手は必ず、『三つ』を言い当てられたら退散しなければならない。逆に――言い当てることが出来なければ、私の体は――。
「……ま、勝ったも同然ね」
私はスポットライトの当たる自らの足元に、職場でよく座っている安物のスツールを思い浮かべ、軽く念じた。思った通り、音もなく、スポットライトの下にちょこんと木製のスツールが現れる。
意識だけの世界なのだから、念じれば大概のものは現出させられる――こういう類の能力では、一種のお約束のようなものだ。私がのんびりとそれに腰掛けると、後方から景気のいい笑い声が響いてきた。
《はっはっは、言うじゃないか。なぁ? よくもまぁそんな大口が叩けるな? よくよく考えてみた方がいいんじゃあないかな? だって、そうだろ? キミはついさっき私をゴミ捨て場で拾い上げた。ついさっきだ。細かな調査だってしてないんじゃないか? そんな状況で、よくもまぁ三つも私の正体を言い当てようだなんて考えたもの――》
「製造年月日は1976年7月4日、当時の製造会社所有の岡山県第一工場で製造。これがあなたの出自。どう? 当たってるでしょ?」
人形の笑いは止まった。闇とスポットライトと人形と私だけの空間に、暫し静寂が満ちた後――私は口を開く。
「箱に書かれた製造番号と、それの割り振りルールくらい、今の世の中幾らでも調べようがあるのよ? とっても簡単にね。さて」
最後まで笑っていられるといいわね、あなた――そう言って、人形の代わりに、私はくすくすと笑ってやった。
たっぷりと、侮蔑を込めて。





