クロスファイア - 第8話
「嘘、つき」
炎柱が生み出す、地獄の底のように真っ黒な影に染まったウェンディゴが、低い、背筋を凍えさせるような冷たい声で呟いている。どうやら、こちらの声は届いていないらしい。……いや。
届いていないのは、声だけではない。
「嘘つきは、罪人。罪人には、首を括ってもらわなきゃ」
ぼそぼそと呟きながら、アンは平然と炎の柱に一歩を踏み出した。その体は業火に炭と化す……ことも無く、炎をモノともせず、そのまますり抜けて、こちらへ歩いてくる。ゆっくりと。
「――分析その五」
「あなたに私は燃やせない。一度……言った筈よね?」
言葉の先を、アンは容易く読んだ。直後だった。アンがすぐ傍に据えられた、木製の本棚に手を伸ばしたのは。
「やばっ」
呟きが漏れたのと、アンが片腕で本棚を持ち上げたのは、ほぼ同時だった。そして、ウェンディゴは――複数のハードカバーの本が零れていくことなど、一切気にする素振りも無く――涼を目掛けて『本棚を』振りかぶり。
投擲する。
「ばかぢからっ!」
空気が、悲鳴を上げるようだった。狭い室内で、野球ボールのように軽々しく投擲された高さ二メートル超の本棚に、涼は急いで全力の炎を投げつける。しかし、弓矢のそれに似た形状の炎は、本棚にぶつかるや否や、あっさりと霧散した。涼は舌打ちした。次のアクションなど考える余裕も無い――彼女はすぐさま、すぐ背後で倒れている雨月の上に覆いかぶさり、頭を両手でガードする。
轟音が書斎に響き渡った。壁面にぶつかって砕けたらしい本棚の破片が、バラバラと散らばってくる。随分な質量だったらしく、破片の一つが頭頂部にぶつかると、それだけで意識が沈み込むような衝撃が頭に走った。
涙が、無意識に漏れる。
だが、泣いている場合ではない。涼は未だ破片が降り注ぐ最中、再び全力で書斎の床全体をイメージした。その下に炎を。考えうる、イメージできる、最大の炎を。頭がくらくらとした。ずきずきと痛んだ。それでも、イメージした。鈍い痛みが鋭いものに変わり、頭頂部からこめかみへと走り抜けて――。
「涼ちゃん」
顔を上げた。すぐ目の前に、アンが両腕を伸ばしている。その手が、涼の首に掛かる。
直前に。
「燃えて!!!」
叫んだ。
書斎の床全面から、獣の叫び声に似た轟音と共に、猛烈な勢いで無数の炎柱が立ち昇る。
「必死ね」
アンが嗤うのが聞こえた。構わない。涼は叫んだ。持ちうる最大の出力で生み出された炎柱たちは一瞬で混ざり合い、火炎旋風と化して、天井を吹き飛ばして天へ昇っていく。同時に巻き起こった強烈な上昇気流がアンの体を攫い、華奢な少女の姿は、容赦なく上空へと吹き飛んだ。
酷い虚脱感が全身に巡ったのは、その直後だった。生み出した火炎旋風はその途端に消え失せ、雨月の体に覆いかぶさったまま、涼は上空で嗤うアンの姿を捉える。
「分析……そのろく? かな……」
アンが、地上へ落ちてくる。いつの間にか夕陽は消えていて、上空には星空が瞬いていた。夜空を貫いた炎の竜巻で、晶穂の上司――碓井とかいう名前のハゲ――は、状況に気づくだろう。そして、こちらに向かってきてくれる筈だ。つまり、考えるべきは、それまでどうやってアンから身を護るか――。
――違う!
「その六……! 全力の炎も効かない。だけど、分析その七……!」
『分かんないの。知りたい。何であんなものを作って、人を殺すのか。家があって、友達が欲しくて……そんな普通の生活があるのに』
「アン。アンタは、離れた相手に伝わる術を持ってない。それがあれば、本棚なんて投げなくても――亜空間でもさっきも、もっとスマートにわたしたちを攻撃出来たはず……!」
呟きながら、頭に走る痛みを堪えながら、涼はゆっくりと立ち上がった。足元がぬるりと滑る。
雨月の血だ。
「……ねえ、アン。どうして、坂田がさっき口を挟んだのか、分かる……?」
『どうして、他の普通の人の生活を壊すの?』
「多分、伝えるためだよ。アンタに気づかれず、わたしに伝えるために――自分が、今日のわたしみたいに、アンタに魂を取られて無いって。伝えて、この場所で、わたしが余計なことを考えなくてもいいように。そういう風に――」
『お菓子だって食べたいでしょう?』
「――アンタが、誰かに、自分を上手に伝えられたら」
「涼ちゃん」
アンの声がした。いつの間にか落ちていた視線を、空へ向ける。
アンの顔が、両手が、目の前に、迫っていた。
「あなたは、ざいに――」
「アンタはきっと――」
涼はアンを見据えた。見据えて――無意識の命ずるままに、落ちてくるアンの両手に、右手を差し出した。そして。
互いの指先が、触れた。
その、刹那に。
「――ウェンディゴになんてならなかった!!」
涼は叫んだ。叫び――脳が悲鳴を上げるのを無視して――アンの腕に、顔に。
それらの『内部』に。
炎を、創造した。
えっ、と、小さく、アンが声を漏らしたのが聞こえた。その腕が、その顔が、ぼこぼこと、まるで内部から沸騰するように無数の水ぶくれで膨れ上がった。続けて、涼は強く念じながら、右腕を大きく振り下ろす。炎を、壁へ――その意志のまま、アンの体の内部に生み出された炎は、アンの体躯ごと、屋根の無くなった書斎の壁に飛んでいく。
轟音が響いた。
もうもうと、噴煙が上がっていく。
「わたしは……パイロキネシストだから……!」
左目から、何か零れていく。嫌に視界が悪いと思ってそれを左手で拭うと、流れ出ているのは、紛れもなく血だった。
「防火術で防がれるなら……その内側に炎を創る……!」
頭が痛い。くらくらする。心臓の鼓動が異常に速く、その音がガンガンと鼓膜を叩いている。
無茶をしているのは分かっていた。燃焼とは化学反応だ。自分は今、その化学反応に必要な条件を、幾つも強引に無視している。
以前、晶穂が言っていた。魔術は、『実現が困難であればあるほど強い効果を発揮する』と。ならば、逆も然り。強い力を振るうには、命を保つのも困難な反動に耐えねばならない。
それでも。
「アン……!」
ガラリ、と、派手な音が、注視する方向から響いた。放っている炎の動きで分かる。アンが立ち上がったのだ。
「そこから、動かないで……! 体の内側に火がついたアンタに、もう勝ち目は――!」
「想像以上の……才能……だわ。涼ちゃん」
右腕と顔面に幾つもの水ぶくれが出来上がった醜悪な様相で、しかし、煙の中から姿を現したウェンディゴは。
わらっていた。
狂ったように。
「だけど……勝負はまだ……まだでしょう? あなたはまだ、私を殺してない……!」
いつでも殺せるわ、と、言おうとした。脳まで焼けば、と。だが。
舌がうまく、動かない。
「私はまだ、あなたを殺せる……あなたを殺せば、この無茶苦茶な炎は消える……だから」
一歩、アンが足を踏み出した。もう一歩。更に一歩。
近づいてくる。
水ぶくれで開きっぱなしになった口から、ダラダラと涎を垂らしながら。
「私があなたを殺せば、私の勝ち……!」
「そ……その、ま……え、に……!」
『……友達が欲しいって、思うこともあると思う』
左目から、只管、何かが零れていく。血だ。血が、止まらない。
『私たち、きっと親友になれるわ』
――ううん。
『わたしたち、友達になれたかもしれないのにね、メアリー』
――本当に、血、なのかな。
「涼……褒めて、あげる。その、才能……でも……!」
「アン。と、まって」
「勝つの、は――!」
「アン!」
「私――!」
「――いいや。お前の負けだよ」





