クロスファイア - 第6話
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耳を覆いたくなるような苦悶の声が聞こえて、涼は瞬時に両腕を伸ばした。念じると炎が巻き起こり、更に念じると、炎は蜷局を巻きながら、彼女の上方へと飛んでいく。その先には。
「アン!!」
「あら」
もう起きたの、と、何でもないかのように言って、アンは血まみれの顔を一瞬、こちらに向けた。それから、素早く宙へ体を翻し、自身を狙う涼の炎を容易く回避する。涼は亜空間を落下しながら目を見開いた。アンの手には未だ雨月の頭が掴まれたままで、ブラブラと垂れ下がる雨月の右肩部からは、雨樋を伝って落ちてくる雨水のように、ぼたぼたと血が落ちてくる。それは丁度。
幼児が、人形の頭を持って乱暴に振り回す様に、酷く酷似していた。
「坂田を――!」
彼女はほぼ無意識だった。無意識のまま宙で体を翻し、周囲に手頃な足場が無いことに舌打ちをしてから、問答無用とばかりに両腕を足元へ向け、全力で炎を解き放った。スカートの端が焦げ付くことなど意にも介さず、亜空間をヒラヒラと動くアンへ、炎の推力で真っ直ぐに向かっていく。
「放して!!」
「あら、次は涼ちゃんが鬼? それも面白いか――」
「うるさい!!!」
涼は更に念じた。炎が咆哮を上げる。加速に耐え切れないのか、頭へ鋭い痛みが走った。だが、涼はそれを無視した。
「手を――!」
アンの背後に回る。相手が首を回して、涼を振り返る。容赦なく。
「放せっつってんのよ花子まじゅちゅし!!」
涼は両腕を、そこに纏わりつく炎を、血塗れのアンの頭に振り下ろした。
だが。
「もう。忘れたの?」
アンは片手でパチンと指を鳴らした。途端。
涼の腕で轟音を上げていた炎は、風に吹き飛ばされるように、雲散霧消した。
「私に炎は通じない、って」
渾身の力を込めた打撃を、アンは血塗れの顔で平然と受け止めた。殴りかかった掌に逆に痛みが返ってきて、涼は思わず顔をしかめる。
直後。
腹部に強烈な衝撃が走り、涼の体は再度、亜空間を吹き飛んだ。
――なんで。
激痛の中、吹き飛ばされる前に見た、坂田雨月の様相が頭を巡る。丁度、右の鎖骨を丸ごと覆うように噛みつかれていて、その傷口は潰れた柿に似ていた。怪我などとは基本的に無縁な除霊活動を繰り返していた自分でも、流石に分かる。
恐らく、アレは致命傷だ。
一刻の猶予も無い。
なのに。
――わたしじゃ、勝てないの?
頭の中で、そう呟いた瞬間だった。突然、強い痛みが背中を突き抜けて、涼は息が出来なくなった。そして、倒れこむ。
『地面』に。
――あれ。
涙が滲み、胃液を吐き出しながら、混乱する頭で、涼は突然現れた『地面』をまさぐった。硬く、冷たい。おかしい。先程まで体を操られていた自分が居たのは、地面など何処にもない奇妙な空間だった筈だ。ここは――。
「ごめんなさい、涼ちゃん。鬼ごっこはもう終わり。何故って、追えるヒトが居ないもの」
……涼は歯を食い縛り、手をついて、頭を持ち上げた。彼女は今、本棚が二列になって壁際まで並んでいる、少し埃っぽい部屋の中に居た。ハードカバーの古ぼけた、しかし頑丈そうな本が複数、乱雑に床へと投げ出されている。涼の背後は……どうやら壁らしい。
脳裏に、この屋敷に乗り込んだ時の記憶が蘇った。誰も居ないことを確認してすぐに踵を返した、屋敷の一階奥の書斎。いま自分が居るのは、そこだ。そして、正面――書斎の壁際に、相変わらず顔中を血に染めたアンと、力なく頭を掴まれている雨月が見える。
晶穂は。
……居ない。どこにも――。
「あら、あの貧弱な除霊師を探してるの? あの人なら、あっちに置いて来ちゃった。弱いし、食べ甲斐が無いもの」
「あっち……?」
「さっきまで居た、あの亜空間のこと。だから、あの除霊師さん、もうこっちの世界には戻ってこれないわ。出入口、閉じちゃったもの」
涼は暫く、何も言えなかった。亜空間に取り残される――それは即ち――死と、同義ではないのか。
「この除霊師さんも、この通り。必死に私を食べようとしてたけど、とにかく運が悪いのね。相手が私じゃなければ、まだ勝ち目はあったのに」
「食べ……?」
「あら、涼ちゃんはご存じ無かった? この人、『相手のエネルギーを食べる』力を持ってるの。だから、さっきの亜空間でも、私に近づく度に、私のエネルギーを食べ尽くそうとしてた。でも、それって、氷山の先っちょを齧ってるようなものだから」
この人に私は食い尽くせない、と、アンは口の周りの血を拭いながら、嗤った。
「だけど、私はこの除霊師さんを食べられる。そうね、一方的過ぎて、少し気の毒に思わなくもないわ? でも、世の中って、得てしてそういうものでしょう?」
「……坂田から、退いて」
吐き気がする程の濃密な血の匂いが鼻に届く中、痛む腹部を押さえつつ、涼はゆっくりと立ち上がった。だが、と、同時に思う。立ったところで、自分に何が出来るだろう?
炎は、効かない。
雨月は瀕死で、敵はピンピンしている。おまけに、晶穂は……。
「ねぇ」
気味が悪い程に優しい声が前方からやってきて、涼は思わず身構えた。その様子を滑稽と思ったのか、アンが嗤う。
嗤う。
嗤う。
「あなたも、私と同じにならない?」
……言葉の意味が分からず、涼はじっと前方を見据えた。
書斎には、カーテン付きの小さな窓が、一つだけついている。そこから差し込む夕陽は既に酷く弱々しく、部屋は漆黒に閉ざされていくようだった。
「さっきも言ったけど、私はね、人間じゃあないの。人喰い鬼。だけど、生まれた時は人間だった。
さて、ここで問題。私はどうやって鬼になったのでしょう?」
実に楽しそうに彼女は言って、その場でくるりと回ってみせた。踊るように、華麗に。涼は大きく息を吐きだし、何とか平静を保とうとする。見え透いた挑発だ。いや、遊んでいるのか。いずれにせよ、相手の隣に血塗れの雨月が居なければ――そして、炎が無効化されないのであれば、激昂して両手を突き出しているところだ。
「分からない? ねえ、分からない? じゃあ、ヒント、欲し――」
「ウェン、ディゴ」
上ずっていくアンの邪魔をするかのように、ふと、掠れた声が書斎に響いた。涼は目を大きく見開く。アンは如何にも『興を削がれた』とでも言わんばかりの冷たい目で、声の主を――自身が頭を掴んだままの、坂田雨月へと目を移す。
「アメリカ北部に、そういう名前の、化け物の、伝承がある、わ。後天的に、人から、人でないものへ、変わった、特異な、存在。伝承では、人間を、喰って」
「はいはい、正解正解。あーあ、つまらない。あなたが答えたらつまらないでしょう、そんなことも分からない?」
そう言うと、アンは乱雑に雨月を手放し、床に倒れこんだ彼女の、血塗れの右肩を軽く蹴った。雨月は苦悶の声を上げ、藻掻こうとするが、その体をアンは思い切り踏みつける。
「アン!! 足を――!!」
「なあに? 何かしら? 文句? 文句なの? でも涼ちゃん、そんなの言える立場じゃないでしょう? ねえええ?」
涼はアンを強く睨んだ。本来なら、飛び出して殴りかかりたいところだ。だが、やはりそれは出来ない。涼と雨月、両者の生命は、アンに完全に掌握されている。下手なことをすれば、雨月は一瞬で殺され、次いで自分も――。
『涼、よく覚えとけ』
――自分も――。
『こういう場合、まずあたしらは何をすべきか?』





