クロスファイア - 第5話
「あれは」
呟いたところで、アンは事態の深刻さに気付いたようだった。体を翻し、雨月から離れ、猛スピードで後方――亜空間の出口へと向かおうとする。その背に雨月が拳を叩きつけても、気に留める様子すらない。
「しょーちゃん!!」
雨月が警告の意図で大声を出した時、晶穂は丁度、何とか、といった様相で、ハードカバーの本の上に着地したところだった。籠められていた厄を使い切ったのだろう、幾つかの古い御守をポイポイと亜空間の底に投げ捨てている。その傍らには、ぐったりと、糸の切れた人形の如く晶穂に抱きかかえられている、涼の姿もあった。
「うーちゃん、予想通りだったぞ! 出口に居た腕の化け物をぶっ飛ばしたら、涼の拘束が解けた!」
「見ればわかるから早く逃げて!」
叫ぶ間に、アンは晶穂の目前に躍り出ていた。間に合わない――アンを追う雨月がそう認識した直後、魔術師は両の掌を組み合わせ、槌のように、それを晶穂の顔面へと振り下ろす。直後。
稲妻のそれに似た重低音が、亜空間に轟き渡った。
どうやら。
「せせこましい術を使うのね」
雨月が一から十までお膳立てせねばならないほど、晶穂は弱ってはいなかったようだ。振り下ろされたアンの両腕は、晶穂の頭上で塞き止められている。受け止めているのは、晶穂の周囲に浮かぶ複数の本から弦のように伸びた、幾筋もの青紫色の耀きのライン。着地の前に、周囲に御守を設置しておいたのだろう。晶穂は狭い本の上に一つの御守を置き、それを中心として魔の力を網のように繋ぎ合わせ、アンの腕を受け止めている。
「いつから気付いてたの? 涼ちゃんの魂を持ってるのが、ベティだった、って」
「ベティ? あの腕だけの奴の名前か?」
随分可愛らしい名前だな、と、足元の御守に手を置いたまま、晶穂は笑った。だが、その額には脂汗が浮かんでいる。思い切り上方にぶん投げて戦闘から一時隔離しておいたものの、彼女が重傷であることには変わりないのだ。涼を掴んだまま、後方数メートル先の出口に向かう――そんなことすら、きっと難しいのだろう。
「上から見てりゃよぅく分かったぜ。出口――腕のヤツの居る場所から見て、うーちゃんの体がお前の陰に隠れた時だけ、涼は炎を放たなかったからな」
バリバリと、アンの腕を防ぐ光の束が異音を奏でている。晶穂は続けた。
「そもそも、お前独りで涼まで操れるなら、腕の奴が出てくる意味も無えもんな」
その通り、と呟いて、ようやく追いついた雨月は、アンの背中に全力で横蹴りを放った。傷だらけの足で放った蹴撃だったが、アンの体は面白いように亜空間を吹き飛んでいく。完璧に入った――雨月は確信した。故に、次の瞬間、自身の体を貫いた衝撃の意味を、彼女は一瞬、理解できなかった。
そう、すべては一瞬だった。アンを蹴り飛ばしたはずの自分が、一瞬のうちに、逆に腹部を押さえて亜空間を吹き飛んでいたのは。眼前が赤と黒に点滅し、彼女は血を吐いた。吐きながら、そんな馬鹿な、と胸中で呟いていた。
人を操る呪術や魔術は、古今東西様々に存在する。しかし、自由自在に、となると、その難易度は極端に跳ね上がる。当然だ。人間の脳は、自分の体を制御するだけで手一杯なのだから。他者の体を操る余裕など、基本的には存在しない。
操作対象がコーダーであれば、尚更だ。彼らは皆、霊的干渉に強い抵抗力があり、おまけに他者にはない特異な能力を持っている。それはいわば、三本目の腕だ。果たして、術者自身が空間を縦横無尽に動き回り、戦う最中で、更に他者の体を操り、加えて三本目の腕を的確に振るうことなど、可能だろうか?
いや。全く、現実的ではない。
そう考えたが故に、雨月と晶穂は、奪われた涼の魂の在処を探した。敢えて晶穂の非力さを相手に知らしめて、戦闘から隔離して――雨月が時間を稼ぐことで、それは達成できた。
だが――「ああそうだった」と、激痛の最中、雨月は思い返していた。いま思えば、自分が最も注意を払うべきは、涼の魂の場所などでは無かった。目の前の魔術師の、この尋常でない耐久力と怪力の正体――それをまず、探るべきだった。雨月は自分を責めた。状況を理解して、己の愚かさを責め立てた。
雨月に蹴り飛ばされたアンは、すぐさま宙を翻し、雨月と晶穂の両者に蹴撃を加えたのだ。それも、これまでとは桁違いの力で。視界の端で、晶穂が亜空間の底へと落ちていくのが見えた。涼は――それを確認する暇は無かった。雨月の頭は魔術師の小さな掌に捕らえられ、強く強く、浮石となっている本の一冊に打ち付けられたのだから。
「遅れてごめんなさい。言った通り、ここからは本気ね」
耳の奥でゴリゴリと骨が歪む音が響いた。苦悶の声を上げ、雨月はそれでも、眼前の黄金色の瞳を睨みつける。睨みつけながら考える。間違いなく人間ではない。では、アンは何者だ?
どうすれば倒せる?
弱点は?
「必死に考えてるのね。素敵。その、諦めない姿勢。だけど、ベティを殺されたのは、ちょっと頭にきた。
ううん、ベティだけじゃない。メアリー、エリザベス、マーシー……みんな、あなたとあの貧弱除霊師が殺しちゃったのよね。でも、腹が立つけれど、私はあなたたちに敬意を示すわ。だから、その身をもって教えてあげる。私が何なのか」
私は、と、アンは笑った。笑みによって大きく開いた口は、まるで闇夜に佇む三日月のように不気味で陰鬱だった。そして。
「実は、実はね、私」
人喰い鬼なの、とアンは告げた。その時、雨月は気付いた。相手が大きく、三日月のように口を開いた理由は、笑みのためではなく。
「それじゃ」
『食事』の為なのだと。
「いただきます」
首から肩に掛けて、猛烈な――抉られるような痛みが走ったのは、その直後だった。





