クロスファイア - 第4話
「――あなたを殺すわ」
告げても、涼からの反応は無かった。アンの言葉によれば、炎を放ち続ける彼女にも、意識は存在しているらしい。ならば、自分の言葉を聞いて、彼女はどう思っただろう――雨月はそんなことを考えながら、左掌に力を込めた。正確には、込めようとした。
しかし。
「酷い人ね」
――雨月と晶穂が、ブードゥー教について知っていることは、然程多くは無い。いや、知らないことの方が多い、と言うべきだろう。ブードゥー教は、その興りからして、民間伝承と言って差し支えないものだ。つまり、地域や術者によって、その在り方は大きく変わる。
「けど、予想よりも面白いわ?」
言葉が響いた瞬間、雨月は涼から手を放し、思い切り体を仰け反らせた。暴風が下方から雷のように駆け抜け、雨月の体躯は強く後方へと弾き飛ばされる。最中で何とか浮かぶ本を視界に入れ、その上に着地した時、魔術師は掴み取ったのであろう涼を小脇に抱え、爛々と輝く両の眼で雨月を見据えていた。
「正直に言うと、私、除霊師なんて言っても、どうせ人道主義の甘ちゃんだろう、って思ってたの。でも、甘ちゃんは私だったみたい。こんなに簡単に、何の躊躇もなく、人質を切り捨ててくるなんて!」
掠めたのか、額からどろりと血が流れてくる。雨月はそれを、残った左腕で何とか拭い、傷口を抑えた。魔術師は喜々として、亜空間をひらひらと浮遊している。涼を片手に抱いたまま。
「楽しいわ。予想外で、とっても楽しい。ねえ、いいかしら? あなたなら、本気を出してもいいのかしら?」
「本気?」
「そう、本気」
「聞いてもいい?」
「なあに、日本の冷血な除霊師さん」
「あなた、何者?」
涼を、近くの本の上に、まるで人形にポーズを取らせるように立たせている魔術師の背中へ、雨月は至極素直に質問を放った。相手の使う術はブードゥーのそれに属するもの……の、『筈』だ。ブードゥーはアニミズム――日本で言うところの汎霊説、即ち『どこにでも霊的存在が有る』という考えに基づいており、それらから力を借りることで術を行使する。雨月たちが居るこの亜空間も、人間の居る世界とは次元の異なる、精霊たちの居場所を一部間借りしたもの――と解釈するのが妥当だろう。
おまけに、ブードゥーには炎を司る精霊も居る。アンがその精霊の力を利用していた場合、炎を操って攻撃するパイロキネシストでは、とても太刀打ちできまい。つまり、涼にとって、アンとの相性は絶望的に悪いのだ。涼が捕らえられたのも、そのあたりが関係しているのだろう、と雨月は思っていた。
だが。
「今の動き」
言葉の途中で、雨月はまた、本を蹴り飛ばした。後方へ――考えた刹那、彼女は背中から強い威圧感を感じ、左腕を持ち上げる。
破滅的な衝撃が、雨月の華奢な体躯を貫いた。
「凄いわ。これにもついてこられるのね?」
血を吐きながら、赤と緑と紫の空間を、雨月は飛んだ。正確に言えば、吹き飛んだ。浮石と化したハードカバーの本が遠慮なく体躯にぶち当たり、彼女の吹き飛ぶ先はその度に角度を変える。
――こいつ、やっぱり。
「はあい」
衝撃に眼前が白黒に歪む最中、嫌みな程に軽快な声が響く。瞬時に、半ば無意識と経験則に突き動かされるままに、雨月は膝を持ち上げる。刹那、持ち上げた右足に痛打が走り、再び雨月は亜空間を吹き飛び、転がった。転がりながら。
彼女は確信した。
――『人間』じゃない。
ブードゥーがどんなに派生の多い魔術であろうと、アンの、姿すら見せぬ速度、そして怪力は、人間が呪術で得られる力――いや、人間の体が耐えられる力を、遥かに逸脱している。雨月は除霊師としての過去の経験から、目の前の力を、そう結論付けた。笑いながら次々に繰り出される魔術師の破滅的な力を、すんでのところで防御しながら。
考える。
強く下唇を噛み、痛みに耐えながら、考える。人間で無いなら、この魔術師は。
アンとは、何者だ。
「防御ばっかり」
アンが、嗤った。雨月は。
「こっちばっかり」
同じく、嗤った。
直後だった。
一筋の、青紫色の禍々しい――けれど天使の梯子のように神々しい、真っ直ぐな強い光が、原色蠢く亜空間を駆け抜けた。





