クロスファイア - 第2話
「涼!」
晶穂が叫んだ。そう、部屋の中には確かに涼が居た。だが。
床が無い。
「亜空間……」
蹴破ったドアの向こうでは、ハードカバーの分厚い本が幾つも宙を浮遊していた。広さは分からない。ドアの外側から見ても、正面も上部にも下部にも床や壁に思えるものはなく、遠くで赤と緑と紫が這いずり回っているのが見えるばかりだ。例えるなら、深海。前後左右上下、どこもかしこも海水で、陸地も空も無い。視界の遥か先が色を無くして闇に混ざっている――そんな場所だ。但し、遥か先に見えるのは闇ではなく、蟲のようにうねるどぎつい色。そして、せめてもの彩りとでもいうように、茶色いハードカバーの本がぷかぷかと空間の至る所を浮遊している。涼は……浮かんでいる無数の本、その内の一冊の上に立っていた。
雨月の脳裏に、晶穂と涼が出逢った小学校に仕掛けられていた、魔術装置のデータが過る。特定の操作を実行した者を、時間の概念の無い亜空間に引きずり込む――それは空間と空間の狭間、この世であってこの世で無い場所。雨月すら目にしたことのない場所。
恐らく、目の前にあるのは、それだ。
「本の上を跳んで移動できそうだな」
背後で、晶穂が恐ろしいことを言った。まさか、入るつもりなのだろうか? この果ての見えない異常な空間に?
「却下。入ったら、閉じ込められて二度と出られなくなるかも知れない」
「いやぁ、そうは言うけどさぁ、うーちゃん。涼があっちで浮いてるわけだし――」
そこまで晶穂が告げた時、不意に後方から生温かい風が足元を吹き抜けて、雨月は晶穂を背負ったまま振り返った。それは一種の予感であり、防衛反応と呼ぶべきものに突き動かされた結果だ、と言っていい。何しろ。
後方の廊下から、二本の白い腕が、猛烈な勢いで伸びてきていたのだから。
「ごめんしょーちゃん、入るわ!」
咄嗟の判断であり、最善とは言い難いものだと、雨月は自身を責めた。責めながら、彼女は後方へ――即ち、ドアの向こう、涼の居る亜空間へと身を翻した。すんでのところで自身の足を掴まれることは回避できたものの、雨月は晶穂を背負ったまま、赤と緑と紫の空間へダイブする。重力は存在しているらしく、彼女の体は強く下へ――どこを下と定義すべきか――落ちた。風の唸る音が耳元で鳴り、舌打ちをしながら、雨月はくるりと体躯を宙で捻る。
浮いていたハードカバーの本、そのうちの一つの上に、片足で着地する。
着地した左足に衝撃がグンと掛かるが、何とか耐えた。……浮遊する本の上への着地。頭がくらくらするほど非現実的な状況だが、ひとまず、永遠に落下し続けるようなハメに陥らなかったことは、喜ぶべきことだろう。
「うーちゃんは軽やかだなぁ」
「お陰様。それより」
入ってしまった――周囲で蜷局をまくどぎつい色の塊に吐き気を覚えながら、雨月は頭上へと視線を向ける。落ちてきた亜空間の入り口までは、目測……十三メートル程。空間中にふわふわと浮遊するハードカバーの本たちは、水族館の大型水槽で無秩序に漂う海月たちを彷彿とさせる。それらをうまく伝っていけば、先ほど落ちてきた入り口――それは雨月から見て、空間にぽっかりと空いた長方形の『穴』に見えた――へ辿り着けそうだ。問題があるとすれば、いつその『穴』が閉まるか分からないということと――『穴』の際で、真っ白で細い二本の腕が、雨月たちを探すように亜空間を掻き毟っていることだろう。
「キモ」
「子供の腕だな。多分、九歳くらいか」
酷く冷静な口調で、晶穂が後方から告げる。正体は不明だが、とにかく、亜空間から抜け出せる穴が存在しているうちに、脱出するのがベストだ。ついでに涼も引っ張って行けば――。
「うーちゃん!」
「分かってる!」
――涼の姿を探そうとした直後、二人は同時に叫んでいた。雨月は瞬時に周囲へ視線を走らせ、頭上二メートル程の場所を浮遊する本へと跳躍する。一瞬遅れて、彼女が立っていた足元を、一筋の炎の矢が貫いた。ハードカバーの本は一瞬で燃え尽き――無事に次の足場へと着地した雨月は、更に上方に立つ『彼女』へ、強い言葉を投げる。
「随分なご挨拶ね、涼ちゃん」
「さてはさっきの手に掴まってたら、お前の炎でお陀仏、って寸法だったな?」
二人揃って告げても、涼は何も言わず、開いた本の上に立ち、両腕を広げ、両の掌から炎を立ち昇らせていた。表情は――ここからは見えない。
「涼ちゃん」
もう一度、名を呼ぶ。そして――雨月は意を決して、尋ねた。
「意識はある?」
「もちろん」
声が返ってきた。涼から。
ではなく。
「こう見えて、人形遊びは卒業済みなの」
後方から。
「うーちゃん、跳ぶな!」
足に力を込めようとした直後、背中の晶穂が叫び、雨月は歯を食いしばった。直後、腰が砕けそうな程の衝撃が後方から突き抜けてくる。
強く、足元の本を踏みつけた。
「へえ、意外」
衝撃を堪えている雨月の後方から、再び、涼ではない者の声がする。
「千切れ跳ぶか、吹き飛ぶか、避けるか、どれかだと思ってたのに」
「力強くてビックリか? だからって尻尾撒いて逃げるなよ? 追いかけるのは兎角面倒くせえんだ」
晶穂の声だ。雨月は吹き飛ばされそうな自身の体を、足場から離れないように耐えつつ、ゆっくりと、肩越しに、背後へ目を向ける。
両手に穢れた御守りを握り締め、滾る青紫色の邪悪な輝きを自身の体躯に纏わせながら、晶穂はクロスした両腕で、相手の拳を受け止めている。その拳の主は――真っ白なワンピースを着て、同じく真っ白で大きな三角帽を被っている小柄な人物は――亜空間を浮遊しながら、大人びた落ち着いた調子で、笑った。
「安心して? 遊び場に来て逃げる子供は居ないでしょう?」
「子供? そうは見えねえぞ、クソ魔術師」
晶穂が告げた途端、ふっと、背中越しに伝わってくる力が抜けた。雨月は見た。『魔術師』が、赤と緑と紫と這いずり回る亜空間を、まるで魚が泳ぐように飛ぶところを。相手の黄金色の瞳と、血のように赤黒い髪と、病的なまでに白い肌と――小さな体躯とはひどくアンバランスな、大人びた横顔を。
「宜しくねえな、ったく」
両腕が痺れたのだろう。痺れを振り払うように、雨月の背中で腕をグルグルと回す晶穂が、呟くように言う。
「あいつには、足場が必要ねえらしい」
「本の上しか移動できないこっちは、圧倒的に不利ってことね」
「そういうこと。ああ、そうだった――レディなら、まずは何よりも自己紹介ね。初めまして、日本の除霊師のお二人。
私は、アン。ファミリーネームは無いの。だから、何らかの呪術の対象にしたければ、単純に『アン』という名を使えばいいわ。効くかどうかは別としてね?」
「ご丁寧にどうも。だが、生憎あたしらに名乗る気は無え」
「呪術が怖いのね?」
「馬ァ鹿。名乗る意味と必要が――」
「――無いからよ!」





