クロスファイア - 第1話
「入る前に、確認していい?」
小綺麗な玄関扉の前で立ち止まり、雨月は背中へと声を掛けた。「んー?」と、眠たげな晶穂の声が帰ってくる。
「しょーちゃんは、これから起きるかも知れない事態の中での『最悪』って、何だと思ってる?」
「確認? うーちゃん、それは質問って言うんじゃね?」
「いいから」
ドアノブへ手を伸ばすことなく、雨月は再度背中へ声を掛けた。夕暮れは夜へと姿を変え始めている。逢魔が時、という言葉があるが、今ほど、それに相応しい表現は無い。
何故なら――自分たちは、これからまさに、『魔』に相対しに行くのだ。
まともに歩くのが困難な程に晶穂を追い込んだ者。呪いの無数の矢で雨月自身を殺そうとした者。それら魔の者たちの、首魁の棲まう場所。そこへ――眼前の洋館風の住宅へ、踏み込んでいく。傷を負ったまま。故に。
「んー……そうだな。涼が殺されてて、魔術師は既に逃げ去ってて、手掛かりゼロ、とか?」
「不正解」
念を押しておかねばならない。言い聞かせておかねばならない。
「『最悪』はね、しょーちゃん。あなたが死ぬことよ」
彼女にも、自分にも。
「いい、しょーちゃん。絶対に無理はしないで。あなたは、私に背負われてる『怪我人』だってことを自覚して」
告げながら、雨月は久々に、自身の体に並々ならぬ決意が漲っていくのを感じていた。そう、今の晶穂は、まともに仕事を遂行できるような体ではないのだ。だが、それほどの重傷を押してでも、雨月の背中に背負われてでもここへやってきたのは、彼女もボスも、いち早くこの事件を解決せねば、と考えているために他ならない。特に――洋館に乗り込んだまま、音沙汰の無い涼のことは、出会ってさして時間を共にしていない雨月ですら気がかりだ。グズグズしているわけにはいかない。故に――そう、故に、だ。
「しょーちゃんは私が護るから」
吐き出した言葉を、深く深く身に刻む。自分だ。彼女を護れるのは、他でも無い自分だけ。自分が護るのだ。幼馴染を。愛する彼女を。
「約束よ。絶対、しょーちゃんは死んじゃダメ。いい――?」
「不正解」
――強めに言ったところで、不意に頬を小突かれた。思わず顔をしかめると、背負われたままの晶穂は、太陽のように明るい笑顔をしていた。
「死んじゃダメ、なのは、うーちゃんもだぜ? あたしにとっちゃ、あたしが死ぬよりも、そっちの方がよっぽど『最悪』だからな」
雨月は暫し言葉を失い、じっとこちらに笑いかける晶穂を見つめていた。去来する感情を一言で表せば――。
「――尊い」
「ん? 尊い?」
「あ、ごめん、忘れて。そうね、そうよね。分かった」
雨月は零れ出た本音を咳払いで誤魔化し、再度玄関扉へと視線を向けた。そして。
「二人とも、必ず生きて帰りましょう」
「涼もな?」
「……そうね、涼ちゃんも」
舌打ちしそうになる自分を抑え込みながら、雨月はドアノブに手を伸ばした。全神経を集中させた。二人だけの世界――そこに涼の話をぶち込まれて、気落ちしなかったかと問われると嘘になる。だが、正しいのは間違いなく晶穂だ。だから。
生きて帰ろう。首魁がどんな手練れでも。必ず。
「開けるわ」
「ほいよ」
傷だらけの晶穂を背負ったまま、雨月は――思い切り玄関扉を蹴り開けた。
ドン、と、丁番ごと玄関扉は吹き飛び、住宅の内側、玄関の上を跳ねて、奥へと続く廊下でその動きを止める。
「うーちゃん」
背中の晶穂が、呆れた調子で言った。
「ドアノブに手を伸ばした意味は?」
「何だか無性に蹴り飛ばしたくなって」
「どんな衝動だよ」
「それより」
雨月は前方を注視した。吹き飛んだ玄関扉の向こうに伸びているのは、人が一人通れる程度のフローリングの廊下。玄関を入ってすぐのところには、どうやら二階へ続くと思しき階段が有るが、いま雨月が見つめるのは、電気の点いていない薄闇の通廊の先だ。
その少女は、真っ黒なスカートに、白いブラウスを身に着けていた。幅広のネクタイ、黒のカチューシャ、腰まである、しかし先のハネた独特の髪型。上等な身なりであることは、足元の真っ赤なチャンキーヒールが雄弁に語っている。
「涼ちゃん」
数時間前に別れた少女の名を呼ぶと、通廊の先、闇が混ざったような色彩の家屋の奥に立っていた少女は、微かな足音を立てて、更なる家の奥へと消えた。
「良かった、生きてはいるみたいだな」
「どうかしら」
背中の晶穂の楽観的な言葉を跳ね返しながら、玄関へと踏み込んだ。そして、進んでいく。……中ほどからブチ折れたドアをも踏みしめて。
「暗ぇなぁ……あ、うーちゃんバック。玄関横に電気のスイッチが――」
「我慢して。スイッチ入れた瞬間に大爆発、なんて古典的なトラップもあるかもしれないから。それに、大丈夫」
『相手の、体力や、魔力を、食べる、力、なの、ね』
「私には見えてる」
ここへ来る途中に闘った『呪いの守り手』を喰らった影響で、今の雨月には力が満ち満ちていた。魔術的なトラップならば確実に看破できるし、真正面から握り潰すことすら可能だろう。故に、いま最も警戒すべきは、魔力の無い単純な物理トラップである。故に雨月は、通廊の先の丁字路を、とにかく慎重に覗き込んだ。丸太でも飛んで来ようものなら、玄関まで即座に退く覚悟だ。
「右方、特に何も無し。部屋があるみてえだ」
「左方、同じく突き当りに部屋があるみたい。扉の前には……涼ちゃん」
晶穂と分担して丁字路の分かれ道の先を同時に探った直後、涼は何も言わず、突き当りの扉を開け、部屋の中へ入っていった。パタン、と、音の無い邸内に、ドアの閉まる音が響く。
「……どう思う?」
涼の消えた扉へと慎重に足を進めながら、雨月は背中に尋ねた。敵の棲まう邸内で、勢い込んで突っ込んでいった涼が、何も言わずに部屋へと入っていった理由。靴は脱がずに屋敷の中に入っているが、それでも尚、足元からは凍えるような冷気を感じる。
「宜しくねえよな」
端的に晶穂が言った。
「こっちを連れてく気満々だ。操られてる、って見た方が妥当だろうな」
「しょーちゃんが闘った相手、ブードゥーの呪術師だったわよね」
「イエス」
「……なら、涼ちゃんはもう」
「まぁ落ち着こうぜ、うーちゃん。まだそうと決まったわけじゃねえ」
ポンポンと、晶穂が雨月の頭を叩いてくる。優しい手だ。その指先に震えは無く、動揺は無い。
――凄いなぁ。
雨月は胸中で呟いた。恐らく、晶穂は本心から考えている。『涼はきっと、まだ取り戻せる』と。背中の彼女はきっと、いつものように小さく、不敵な笑みを浮かべているに違いない。
自分には、無理だ。とても。
雨月は涼の消えた扉の前に立ち、小さく息を吐き出した。覚悟はしていた。だが、やはり、かなりの確率で的中しているであろう悪い予感に、ある程度のショックを感じずには居られない。
自分たちがここへ駆けつける前に。きっと、涼は――。
「開けるわ」
「今度は蹴らなくていいと思うぜ?」
晶穂が軽口で言う。だが、雨月は再度、思い切り、眼前のドアを蹴破った。
部屋の中には。





