プリディクション - 第17話
「大井さん、どうかしたの?」
「うん……その……」
「その?」
「その……女の子が、ね」
「女の子?」
増々意味が分からなくて、大井さんの次の言葉を待つ。どうにも窓際が気になるらしい。あたしも見てみたが、入った時と同じで、窓ガラスの向こうには、恐らくは陸上部員と思しき高校生たちがトラックを走っている、青春真っ盛りな夕暮れの運動場しか広がっていない。だが。
大井さんは次に、こんなことを言った。
「その……わたしの気のせいなのか、そうじゃないのか、どっちなのか分からなくて。あたし、臆病だから、神経過敏になっちゃって、変な幻覚を見てるかもって、そうも思うし……でも」
「でも?」
「何回見ても、いま、知らない女の子が窓の傍に居るように見えて……」
……もう一度、窓へと目を向ける。
綺麗な夕日が差し込む、曇りの無い窓ガラス、そこから見える校庭。……女の子など、何処にも居ない。
この部室に居るのは、三人。あたしと、大井さんと、ウィジャ盤をこねくり回す先生だけだ。
「誰も居ないよ?」
「そう……そうなんだ。じゃあやっぱり、わたし、緊張しすぎちゃってる……のかな」
伏し目がちに大井さんが呟く。あたしは何だか嫌な予感がして、先生、と声を掛けた。
「大井さんが、窓の近くに女の子が居る、って」
「窓の近く?」
先生がウィジャ盤から目を離す。近眼の人が遠くを見つめるように眉根を寄せて目を凝らし、それからふんふんと鼻を向けて匂いを嗅いで……先生は硬い表情で言った。
「遥。お前には見えるんだな?」
奇妙な質問だった。お前『には』? つまり、先生にも見えないってこと? でも、除霊師である先生に見えないのなら、言いきってしまっていい筈だ。「何も居ないぞ」って。
「あのっ、でも、東さんは見えないって言ってますし、わたしの気のせいかも――」
「何か、居るんだな?」
先生は落ち着かせるようにゆっくりと、かつ端的に、大井さんへ尋ねなおす。
大井さんは、こくりと頷いた。
「そうか」
先生がそう呟いてから、暫くの間、部室は静かだった。不気味な沈黙だった。隣の大井さんは不安そうにあたしと窓と先生を順繰りに見つめ、先生は険しい表情で『誰も居ない』窓際を見つめる。あたしはと言うと、困惑せざるを得なかった。あたしに見えないものがあるのは分かる。霊媒師でも何でもないのだから。だけど、先生ですら見えないというのはどういうことだろう? 存在し得るのだろうか。『霊媒師にも見えない霊』――。
「遥。一つ、聞きたいんだが」
――ふと、窓際を睨んだまま、先生が大井さんに声を掛けた。
「プランシェットはどこだ?」
「ぷ、プランシェット、ですか?」
「ああ。ウィジャ盤で占いをするなら、ボードの他にもう一つ、道具があったはずだ。真ん中に穴が開いてて、遊ぶ奴らが指を置く、ギターピックみたいな形の奴だよ。ロッカーの中に入ってたり――」
突然、ガン、という大きな衝撃音が、部室内に響き渡った。あたしは目を見張った。先生は眼前の教室机を脚で器用に自身の正面へ傾けていて、そこに今、親指程度の長さの木製器具が、弾丸のように突き立てられている。余程の速度だったのだろう。盾代わりに掲げられた教室机の表面には、クレーターのような凹みが出来上がっていた。
「悪ぃ、遥。見つかったわ」
先生が、小さく笑った。刹那だった。
教室机の表面に突き立っていたプランシェットが掻き消えると同時に、岩に岩を叩きつけるような強く低い音が、雨のように連続的に部室内に響き渡った。次いで、棚が、ロッカーが、窓が、部室中のあらゆるものが、殴られるような衝撃音を立てる。あたしと大井さんは悲鳴を上げてその場に屈み込んだ。あたしは漠然と理解していた。先程のプランシェットが、部室中を跳ね回っているのだ。雹が降り注ぐように、ヒステリーを起こした子供のように、しかし縦横無尽に、何の遠慮も躊躇も無く、それはあたしたちの周囲を飛び回る。
窓ガラスにヒビが走った。ロッカーが目にも留まらぬ速さでベコベコと音を立てて凹んだ。棚に置かれた本は跳ねて破け、整理された衣類はずるずると床に落ち、何度も跳ね上がる。まるで跳弾だった。獲物の隙を窺って密林を跳ね回る、獰猛な肉食獣、と言って良いかも知れない。
「先生!」
身を屈めたまま、あたしは先生へと視線を向けた。先生は椅子に座ったまま、脚で教室机を自身の顔前に持ち上げたままだ。周囲で飛び回る『何か』に対し、微動だにしていない。あろうことか。
「成程な」
何やら、納得したように、また小さく笑っている。
「魔術装置を守るための『防衛システム』か。こりゃ、うーちゃんもあたしも当たりを引いたかな」
次の瞬間。
先生は猛然と――人間のそれとは思えぬ速度で、右腕を眼前に振り下ろした。一際強い衝撃音と共に教室机四つは宙に跳ね上がり、先生の手刀による青い軌跡が、寒気を伴ってあたしたちの視界に広がる。
その中で、あたしは見た。振り下ろされた先生の右手。その衝撃により、宙で真っ二つに砕かれた、ギターピックのような形状の木製プランシェット。先生の右手が素早く動き、砕かれた二つの木片の内、その片方を手中に収める。追って、次々と落下した教室机による、けたたましい音が連続して響いて。
また、静寂が戻る。
「せ……先生」
あたしに抱き着いて、ぶるぶると震えていた大井さんが、ゆっくりと顔を上げ始めた頃……あたしもようやく喉が動いて、部室中央に立ち尽くす先生へと声を掛けた。長く長く息を吐き出している。その意味は、多分。
「か……体中、無茶苦茶痛かったりしません?」
「……痛え」
そりゃそうだ。全身打撲の状態で瓦割など繰り出せば、体中が悲鳴を上げることなど自明の理だ。
「気ィ抜いたら泣きそう」
「な、泣きます!? あたしでよかったら思う存分胸を貸しますけど!?」
「ありがたいお言葉どうも、だ。だが、今はひとまず――」
「――東さん!」
突然、大井さんが叫んだ。あたしがその時にまず思ったのは、「何故あたしの名前を?」だった。だって、明らかに重傷で無理してるのは先生で、あたしは大井さんと一緒に丸まっていただけだ。そんな考えで居たものだから、プランシェットの破片が――さっき先生が砕いた破片の、もう片方だ――あたしの頭を目掛けて猛スピードで滑空してくることを視界の隅に捉えても、特段、恐怖は芽生えなかった。代わりに、ひどくゆっくり動く時の中で、こうは思った。
――あれが頭に当たったら、どうなるんだろ?
「頭を下げ――!」
大井さんが叫ぶ。あたしは動けない。眼前が真っ黒に染まる。痛みは無かった。ある筈も無かった。
何故なら。
いつの間にか先生が、あたしの前に立っていたから。
夕陽を遮るように、影を創るように、あたしを庇うように、あたしに背を向けて。
ドン、と、重い音がした。先生の体がビクンと跳ねる。同時に、その背から、何か赤黒いものが飛び出してくるのをあたしは見た。先生の体が作り上げた影で、よくは見えない。だが、恐らくそれが、先生の体を貫通してやってきた、あのプランシェットの破片だということを、あたしは何となく理解していた。





