コーダー - 第2話
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そもそも、嫌な予感はしていたのだ。いくらインターホンを鳴らしても一切応答が無いこの家の、無表情な焦げ茶のドアを見据えていた時から。
「どうする、ボス。今日で三日目だが」
つい十数分前、この部屋のドアの前でも、晶穂はボリボリと髪を掻いていた。場所は、平凡なマンションの五階、端部屋の前。時刻は十三時過ぎ。まだまだ陽は明るく、秋の陽光が彼らの立つドアの前までふわりと射し込んでいる。暑くも寒くもない、快適そのものの気温だ。
「留守みてーだし、今日も帰るか? 電話も出なけりゃインターホンにも出ねえんじゃ、張り込み以外に会いようが無えよ。あたしらだって、そこまで暇してるわけじゃねーしな」
「青樹涼は一昨日も昨日も何ら変わりなく登校している。今日に至っては一泊二日の林間学校行きだ」
磐鷲がそう言うと、晶穂はいつもの白衣のポケットに左手を突っ込み、後方の壁へもたれかかった。右手は動かせない……というより、ギブスで固定されている。先日対応した、とある案件での怪我が完治していないのだ。とはいえ、彼女自身、こういった事柄に慣れっこなのか、暢気に欠伸などしていた。
気の抜けた声が、穏やかなマンションの廊下を抜けていく。
「身だしなみは整っていたし、特別飢えた様子もない。出前や宅配ピザを頼んだ様子も無かった。彼女は母親と二人暮らしだ。つまり」
「母親は家に居て、自分のガキの面倒を見てる筈……つまり居留守だ、って言いてーんだろ? んなこたぁあたしだって分かってるよ。だが、相手がその気なら」
「入るか」
ボソリと言うと、後方で晶穂は「うへぇ」と声を漏らした。磐鷲はサングラスの付け根を軽く上げ、晶穂を睨む。
「それって不法侵入になるんじゃねえの? っつーか、そうまでしてあたしらがやることか、これ? こういうのは『通廊』に任せ――」
「前も言った筈だ。俺は了さんから、あの親子のことを頼まれている。だから――」
「大事になる前に話を通したい、だろ、分かってるっつうの。あたしが言いたいのは――」
「不法侵入までするほどのことか、だろう。するほどのことだ。了さんには多くの恩がある」
言葉の先を読みあい、交わし合って、晶穂は大きく溜息をついた。それから両肩を上げて、「さいですか」と軽い口調で言い放つ。
「ならもう止めやしねーよ。あたしはここで待ってっから、どうぞ泥棒道へ行ってらっしゃいませ」
……じっと、晶穂を見る。相手はバツが悪くなったらしい。
「分かった分かった、分かってるっつうの! だからそんな目で見んな、ボス」
「そんな目、とは?」
「寂しさと悲しみの入り混じった哀愁漂う眼だよ。おまけに修飾語として『四十過ぎの肥満体ハゲ親父の』が付く」
……いつからこんなに口が悪くなったのだろう、と磐鷲は密かに思った。とはいえ、彼女が元々、自分だけにこの任務を押し付けるつもりが毛頭ないことくらいは、磐鷲も重々承知だ。故に、何も言わず、彼はインターホンをもう一度鳴らし、それから、ドアを強く叩いた。
「青樹さん。青樹まどかさん。中に居るんだろう? 役所の方から来た者だ。居留守を使ってることは分かってる。応答しないつもりなら、勝手だが中に入らせてもらうぞ」
「借金取りみてえ」
「五分待つ。用意が出来たら是非出迎えてくれ。俺たちも借金取り紛いのことをしたくはない」
「スジもんみてえ」
「逐一喧しいぞ餓鬼」
睨みつけてやるが、当の晶穂は左手で器用にスマートフォンを弄っていた。ここに来る途中の車の中でもそうだった。一体何をそんなに触る必要があるのか、磐鷲にはどうにも理解し難い。画面を覗き込んでやると、どうやら何かのゲームをしているらしかった。
「プライバシーの侵害だぞ」
「喧しい、仕事中に遊んでんじゃねえ」
「時間を有効活用してる、の間違いだぜボス」
「雨月が頻繁に愚痴ってる理由がよく分かった」
「今更かよ」
ごちゃごちゃと言い合っていると、五分などあっという間に過ぎていた。もう一度インターホンを鳴らし、扉をノックして、磐鷲は意を決し――彼とて不法侵入に抵抗がないわけではない――ドアノブを回す。
青樹親子の自宅のドアは、呆気なく開いた。





