ホロウ - 第72話
ふと疑問が浮かぶ。同時に。
「……さて、分からぬな。事ここに至っては」
源涯は笑っていた。何のことは無い。
あれは虚仮威しだ。
「そも救世の探求など望んでいたか。総てが胡乱、波の果てからは岸辺など最早見えぬ」
確かなことは、と言葉を続ける。除霊師は動かない。立ち上がったままピクリとも。
動けないのだ。
当然である。外部からここに辿り着き、巨人に殴られ、『欣求浄土』を受けた。能力や体質以前の問題だ。体力など残っている筈がない。
体は鉛の如く――それが小娘の実情である。
「確かなことは、総て藻屑と消えたということだ。愛した男も産んだ子も私の肉を喰ろた者も、総て皆が遠ざかり、終に見返す者は無い。一向に己と波を見続けた成れ果てには一切の縁も無く、時の波は徒に流れ行く。徒だ。何を祈ろうと世は変わることなく、寄せては引いてを繰り返す」
「……自分が何をしようが世の中は変わらんし、何か残ったものもない。だからもうどうでもいいって?」
「いいや。この先には意義と意味がある」
現代の神主から面通しをされた国明という男には、確かに面影があった。清一の――自分をここに連れ閉じた男の面影だ。
その男が、あの男の子孫が言ったのだ。望んだのだ。鏖の先にのみ広がる光景を。
「不変にはもう飽きた。留まる理由が何処にある?」
「そっちには行っちゃいけねぇんだよ。あたしらには留まるべき線があり、境がある」
小娘が錫杖を手に持った。どこに隠していたのかは理解できないが、まぁ良い。巨人に突撃してきた姿を思い起こす限り、相手の術にも特定の型がある。動作の起こりがある。それを見逃さなければ良い。
見続けることなど容易い。見逃さないことなど容易い。この数百年、源涯はそうして生きてきたのだから。
「あんたと似た目つきの子供に会った」
片手で、小娘が血の涙を拭う。苦痛にもかかわらず声を一切漏らさず虚勢を張り続けるその姿は、幾つもの修羅場を潜ってきたことを思わせた。
「そいつはあたしに言った。『どうしてもっと早く来てくれなかったのか』ってな」
「……何が言いたい」
「あんたもあいつも思い込んでるってことさ。自分は『閉じ込められている』なんてな。だから、アドバイスだ」
小娘が左手をこちらに伸ばした。掌は開かれている。掌底を放つ仕草のようにも見えるが、源涯は知っていた。
以前に相対した時も、小娘は空中でこの構えを取った。何処かから赤い矢のように飛んできたことを考慮すると、猛スピードでの突撃を可能とする術なのだろう。だが今は出来ない――そんな力は小娘に残っていない。
「ぶっ潰すなら自分の殻だけにしときな」
「私は喰われたのだよ」
源涯は合掌した。柏手を放つかのように激しく。遠く地上から届く衝撃と轟音を鎮めるかのように。
小娘が動いたのも、それと同時だった。だが源涯の予想した動きではない。右手の錫杖、その底部で、自らの羽織る白い上衣を器用に手繰り、源涯に向けて盾のように広げて見せたのだ。
白い上衣がはためき、小娘の姿がその向こうへと消える。はためいた上衣の一部がぐいと突き出されていく。動けないとアタリをつけたが、もうひと踏ん張りする気力が残っていたらしい。察するに、白い布の向こうから吶喊を企てたのだろう。
小賢しい。
源涯が見抜いたように、相手もまたこちらの術の起こりを見抜いたのだろう。即ち、合掌だ。それは正しい。呪文を伴う術は合掌が起点である。そして『欣求浄土』――他者の肉体を二重に映すこの術は、遮蔽物があると空撃ちに終わる危険性が高い。『欣求浄土』は相手の肉体に被せるようにして別の肉体を固着させ、五臓六腑を破壊する術だ。何もない空間に相手の肉体を創り出しても、虚空から人体が産まれるだけで何の意味もない。
だが、もう一方の術は別だ。
「『厭離穢土』」
源涯は目を瞑り、呪文を唱える。この洞窟の全容、小娘と自身の位置関係、自らが立つべき場所から視えるべき光景――それらを総て思い描いた瞬間、源涯の体躯は宙空へと転移していた。眼を開くと同時に懐から短刀を取り出し、傍に居る『筈』の小娘の首へ突き立て――。
「さっきの必殺の術は『他人』を現像するもの」
――居ない!?
突き刺したはずの短刀は空を突いた。転移した源涯が視たものは、はためいた白衣を盾に突撃しようとしている小娘――ではない。
白衣に向けて放り投げられた、一本の錫杖だ。
「今度は逆だな? 『自分』を――正確には視界を現像した」
後頭部に重い衝撃が走った。宙空から大地へと思い切り叩きつけられ、思わず風の鳴くような音を喉から漏らしながら、源涯は衝撃の源を後方に見た。
「自分がモノを視ている光景を現像する。特異能力はその光景をそのまま創ろうとする。だがそれは世界をもう一つ創るようなもの――たかが人間一人の能力で為せるもんじゃあねえ。そうするとどうなるか?」
小娘は両手に、弾け飛びそうな程に強い青紫色の輝きを持っていた。美しいものではない。不気味で醜悪な輝き――呪いや悪意に似た輝きだ。
それで、宙空へ転移した直後の源涯を殴りつけた。
「ゲームのバグ技みたいなもんだ。特異能力は『世界を創る』のではなく、あんたの現在地を修正することで『現像したこと』にしようとする。結果、あんたの緯度経度高度は塗り替えられ、結果として瞬間移動が成立する」
大地を、硬い洞窟の地面を転がりながら、源涯はじっとこちらを見据える小娘を――理の守り人を睨み返す。
合掌する。目を閉じる。
「『欣求浄』―!」
「向こうに置かれてるモニターには、飾荷ヶ浜のそこらの映像を映してたんだろ? どこにでも瞬間移動できるようにな」
頭上から声がした。その意味を、源涯は刹那で認識した。
「協力者に感謝すべきだぜ、あんた。現代科学で術の条件を突破させて貰ってたワケだしな」
目を閉じた瞬間、守り人は距離を詰めたのだ。まるで瞬間移動のように。
視界の端で青紫の輝きが強く輝く。それだけでも肌に灼けるような痛みが走った。
「感謝だと!? 誰が――!」
「それと、あんた」
脳内に最大級の警報が鳴り響く。源涯は悟った。防御だ。防御するしかない。時空を捻じ曲げる強度を持つ漆黒の防御壁を――!
「覚悟は――出来てるな?」
その声と共に。
生み出した漆黒の防御壁は、叩きつけられた青紫の輝きによって、無惨に砕け散った。





