ホロウ - 第71話
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「暗闇の中で船を見た」
合掌と共に源涯は言った。前方には金色の髪と白い上衣、そして肌と骨と肉と血が混じり合った醜悪な物体がある。
先ほどまで人間の形をしていたものだ。源涯の呪文により、今はもうビクビクと痙攣するだけの存在へと変じた。釣り上げられたばかりの魚のように。
「此処に辿り着いた時だ。暗い船の中で、私は『海岸に辿り着いている私の船』を見た」
理由を問うた女に、もう言葉など聞こえていないだろう。それでも続ける。屍に向けて話す、と告げた以上は。
「私はそこで、無自覚に己が力を行使したのだろう。やがて波の音に騒がしい男共の声が混じった。
次に、船が大きく揺れた。茫漠たる意識の中、私を乗せる船が岸辺に辿り着いたことを悟った。やがて木板がこじ開けられ、私は一人の男に船外へと連れ出された。
綿船の社で長を務めている男だった。奴は私を社の奥へ連れて行き――その道中、私は私が村人らに喰われている姿を見た」
源涯は目を閉じた。古く、朧げな記憶だ。それでも思い出せる。男は焦っていた。血眼の村人たちから、浜辺から、少しでも早く遠ざかろうとした。
男の名は清一といった。
「私は社の下に広がっていたこの洞に匿われ、やがて私の能力に気づいたあの男に乞われ、糧を与えた。助けられた命の恩に報いようと。飢饉の最中にあった村は持ち直し、私は与え続けながら……この洞にて祈りを続けた。西方へ向かうことは叶わなんだが、さりとて祈るには我が身一つあればよい。
時が過ぎ、私は男と愛し合うようになった。子も産んだ。育てることは叶わなんだが、村に引き取られていったと聞く。その頃だ。男が私に永遠を乞い始めたのは」
「身勝手な野郎だな」
声が聞こえて、源涯は暫く停止した。まさしく『停止』が正しい。
「察するに『若さを保ったままで居て欲しい』みたいなことだろ? で、あんたにはそれが可能だった。結果、惚れた弱みで受け入れちまったわけだ。べらぼうな時間を祈り続ける、ってのも仏教じゃよくある話だしな。弥勒菩薩とかその類だった気がするぜ」
「何故……死なぬ」
ようやく発した言葉は、実に馬鹿馬鹿しいものだった。相手が正直に答えるとは思えないし、本心から知りたい疑問でもない。
動揺だ。絶対であるはずの――生き物なら死して然るべき術法が不発に終わった。その動揺だけが胸中を占めている。
「人間では……生物では無いのか、小娘」
「アホ言え、バリバリ生き物だっての。ただ運よく耐える手段があったってだけでな。境界の恣意化――あたしは『自分』と『自分で無いモノ』の境を選択できる。まぁつい十時間前くらいに会得したばっかなんだが」
タイミングが悪かったな、と相手は言った。しかし、違う。時機の問題では無い。
源涯は悟った。目の前の相手はやはり――あの男の言った――理の守り人なのだ。
「おかげで色々と確認できた。あんたの特異能力は……創造、複製……いや違うな。
現像――そうだ、この言葉がしっくりくる。あんたは『自分が視た像を現実に出来る』」
正面。前方。金色の髪の女は、地に手をついてゆっくりと立ち上がっている。傍の篝火は女の影を揺らめかせるが、その表情を照らすまでには至らない。
血と、臓物と、無数の骨の海から立ち上がるその姿は、死者よりも遥かにおぞましい。
「この地域に辿り着いたあんたが見た『自分の船』についてはよく分からんが、予知夢か何かだったんじゃねえか。あんたはその『視たもの』を『実体化』した。結果、『村人に食われた源涯清醒』と、『匿われた源涯清醒』という二つの矛盾する事実、そして伝承が生まれた。
視た像を現す――『自分はそれを見ている』と脳を騙せる限りにおいて、あんたは何でも実体化出来る。村一つ飢饉から救うくらい簡単だっただろうよ。永遠に生き続けることも出来る。鏡にでも水にでも自分を映して、それを延々と現し続けりゃいいんだから。
同じことを、あんたはあたしにも実行した」
そうだ、と言い返せる程の余裕は無い。汚臭漂う血の海から、いつ相手が距離を詰めて来てもおかしくはない。
「物質の位置を指し示す場合、主軸になる要素は緯度、経度、高度の三つ。あんたはこの三つのパラメータを数センチ程度ズラしつつ『あたし』を現像した。こうすると、脳や心臓を始めとするすべての臓器が増殖することになる。当然、まともな生き物なら間違いなく全臓器が混乱して死ぬ。まさに必殺だな。
さて、あたしがここに来て受けた最初の攻撃は岩盤の現像だったな? 巨人でも殺せなかった人間に対して随分と呑気なもんだ。察するに、あの術は無駄撃ちの出来ない奥の手……あんたの体力を大いに消費するか、実行難度が桁違いに高い代物と見た。見慣れたものならまだしも、いま会ったばかりの人間を好き勝手に現像する――んなことそう簡単には出来ねーはずだ。呪文はそれを無理矢理行うためのもんかね。本来行うべき手順――自分が何かを『視ている』と脳を騙すプロセス、それを簡略化するためのショートカット……」
源涯は思い至っていた。眼前の除霊師が朗朗と考えを述べ続ける理由。それは傲慢でも、交渉でもない。
脅迫だ。
『何をしてもお前は勝てない』――そういう類の警告。
「もう一度聞く。どうしてあんたは『そう』なった?」
――除霊師が大地を踏みしめた。視線を源涯に向けた。真っ直ぐで青い眼を。
その右眼からは、一筋の赤い血が流れていた。
――本当に脅迫か?





