ホロウ - 第65話
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渚那奈はその感覚を覚えていた。悪いものを食べて体が悲鳴を上げた時のような――否、それよりも遥かに不快で耐えがたい悪寒、吐き気。無脚の巨人による柏手が鳴り響いた時、彼女は丁度、病院の壁に走った巨大なヒビ割れから卓明を目指して走っていた。そして柏手の音と共に、勢いそのまま地面に倒れ込んだ。痛みよりも不快感が勝った。その中で思い出した。自身をこの病院に連れてきた、金色の髪の除霊師のことを。
あの時――彼女と出会う直前にも、こんな苦悶に襲われた。ということは、あの時も実は無脚の巨人がどこかで柏手を打っていたのかも知れない。或いは――それに近い事象が起きていたか。そんなことを地面がぐるぐると動くような眩暈の中で考えた。
考えながら、前方を見た。
少女が、大地に倒れている卓明の体を揺らしている。卓明ほどでは無いものの、彼女も傷だらけだった。頬も、微かに破れた衣服の袖から見える肌にも、擦り傷や切り傷が見えている。にもかかわらず、少女は――確か濱野真由と呼ばれていた――ひたすら卓明を揺り動かしている。口元をパクパクと動かしているが、声は出ていない。声が出せないのか。喉が潰れたのか。渚那奈には知る由もない。
だがとにかく、その様が気に入らなかった。
「……卓明!」
気づけば、体は動くようになっていた。駆けて、少女を押しのけるように卓明を抱き上げると、彼は一瞬痙攣して――目を瞬かせた。
「いま何が……」
「卓明! 私が分かる!?」
「……那奈。那奈! 真由ちゃんは!?」
那奈は思わず顔をしかめた。目の前に運命の相手がいるというのに、真っ先に気に掛けるのが子供というのはどうか。だがそんな彼女の気持ちなど気づきもしないのか、卓明は真由の手を取った。それから何やらこくこくと頷き、呟いている。
「そうか、つまり地面に……」
「卓明、早くここから――」
「ごめん那奈、ちょっと黙って」
「黙っ……はぁ?」
思わず声が出た自分のことなどそっちのけで、卓明は制止の意味で掲げた掌をこちらに向けながら、視線を落として何やら考え込んでいる。その時、視界の端に無脚の巨人が映り込んだ。巨人は再び両手を天に向け、柏手を打つ――その前に。
弾かれるように真由は両手で大地をついた。
柏手が鳴り響く。
不快感、苦悶――は。
起きない。
「……もしかしてこの子が何かしてるの?」
真由は歯を食い縛ったまま何も言わない。だが、ようやく理解した。この子は口が利けないのだ。話したくても話せない――。
「――那奈。お願いがある」
隣から胸を叩くような強い声がした。見ると、卓明が自分をじっと見つめている。
嬉しくなって「なに」と返すと、彼は無脚の巨人を指さし、言った。
「真由ちゃんを連れてあいつのところに行ってくれ」
「なんて?」
「真由ちゃんを連れてあいつのところに行ってくれ」
尋ね返すと、あろうことか一言一句変えず言い返された。そして、卓明はすっくと立ちあがり、巨人の――いや。
巨人ではない、どこか別の方向を見据えている。
「時間が無いから一度だけ言う。今の飾荷ヶ浜で一番安全なのは巨人の近くだ。あそこには宇苑兄ィがいるから。そして宇苑兄ィには真由ちゃんが必要だ。真由ちゃんじゃないと、巨人の柏手が打ち消せない」
「ちょっ、ちょっと待って。なに言ってるか分かんない」
ボロボロの体で、肉も、骨すら見えかけた体躯でスラスラと言葉を放つ幼馴染に、那奈は困惑を隠せなかった。
ドン、と花火のような地滑りのような強大な音が響いた。遠くで巨人がつんのめっている。先ほど卓明を助けた『宇苑』なる人物が、獣のように飛び跳ねて巨人と戦っているのだ。
「何でわたしが? 必要ならこの子が自分で行けばいいじゃん! ううん、それか卓明が――!」
「俺は他に行かなきゃいけない場所がある」
ぴしゃりと、こちらを振り向くことなく彼は言い放った。反論の余地は一切ないし、聞く気もない――那奈はそう感じとった。
納得がいかない。
「卓明はわたしを守ってくれるんじゃないの?」
「俺にそんな力は無いよ」
がつんと、殴られるような衝撃が頭に走った気がした。意味が分からない。あれだけ――暗闇を縫ってでも自分を探しに来ていたというのに? たった数時間前のことなのに、どうしてこうも簡単に意を翻せるのだろう。
気持ちが悪い。
遠くの衝撃音が大地を揺らしている。
「……俺は俺が出来る限りのことをする」
ふと、卓明はそんなことを言った。
那奈の脳裏に、除霊師の言葉がよぎる。
『だから出来る限りのことをしようぜ。あたしも、お前もな』
「那奈も、那奈に出来ることをしてくれ」
『いまこの時間に、この場所に居る。それがあたしの限界だからだ』
「……あっそ。結局、卓明も助けてくれないんだ」
「いや、助けるよ。守れはしないけど、助ける。必ずだ」
強く肩を掴まれた。振り解こうとするより前に、卓明は続けた。
「だから那奈も俺を助けてくれ」
遠くで地響きがした。戦いの音。那奈のよく知らない誰かが立ち向かっている音。
「真由ちゃんも、いいね? ……そうだ、もし出来そうなら、あの巨人の腕に触れて、何でもいいからとにかく思いっきり『伝えて』みてほしい。真由ちゃんの力は『伝える』――『振動させる』力でもあると思うんだ。でないと説明がつかない」
少女へそう伝えると、卓明は改めて那奈を見た。
真っ黒で、輝きを帯びた眼。彼はこんな眼差しだっただろうか――そんなことを、ぼんやりと那奈は思った。
「また後で」
「……二度と会いたくない」
「じゃあ次に会う時を最後にしよう」
それじゃあ、と卓明は走り出した。病院の敷地内から出て、すぐに曲がって――それで、彼の姿は見えなくなる。
《私達も行こうよ》
頭に直接声が響いた。見ると、真由に手を掴まれている。
《おんぶして。那奈さんは体力残ってるでしょ? 歩き回ってた私たちと違って》
「……は?」
《それとも、やりたくない? でもそうしないと死んじゃうよ。多分、卓明さんはそういうことを言ってたんだと思う》
諭するように言われ、那奈の堪忍袋の緒はいよいよ千切れ飛びそうだった。
何よりも不快なのは、少女の能力によって那奈の脳が揺れることではない。眼前の少女が自らに抱く嫌悪感、それがありありと『伝わって』くることだ。少女の、卓明に対する信頼が『伝わって』くることだ。
「どいつもこいつも……!」
誰も助けてくれなかったくせに、と思った。この夜が広がるまで、誰も自分のことなど見向きもしなかったくせに。助けようともしなかったくせに。偉そうに、分かったような顔で、自分にだけ無茶を要求する。
それでいて目だけは爛々と輝いている。飲み込まれそうな程に強い光が灯っている。
そこから目を逸らすのが、妙に癪だった。





