ホロウ - 第63話
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『呪文を使う敵に会ったら、すぐに逃げろ』
不意に、遠い記憶に揺り起こされた。息苦しさに気づき、晶穂は土壁に突っ込んでいた自らの顔を引き抜く。
全くもって理屈は分からなかった。ただ二度ほど、どこかで何か大きな音がしたような気がして――その後、全身をシェイクされるような衝撃が体内で輪唱し、彼女は進んでいた地下洞の正面へと思い切り顔面を突っ込む羽目になった。
『呪文には大きく分けて四つの意味合いがある。一つ目、ルーティーン。野球選手がバッターボックスの前で行う素振りのようなものだ。特定の行動と心理状態を結び付け、どんな環境でも普段の力が十全に発揮できるようにする』
頭の中には大昔に磐鷲から聞いたウンチクが絶えず流れている。何だろう、と晶穂は思った。思いながら再度、進み始めた。グネグネと曲がりくねった地下洞を一人、白衣のポケットに両手を突っ込みながら。
やがて、広い場所に出た。
『二つ目、リリース。何らかの理由で制御していた力を解放する。三つ目、トリガー。何らかの術を行使する発火点。
ここまで述べた通り、呪文とは術者のポテンシャルを引き出す厄介なものばかりだ。しかし、最後の四つ目。これはその中でも一際危険なものだと心得ておけ』
半球上――と言えるほど、整った空間では無かった。せり出した岩盤で極端に天井が低くなっている場所もあれば、その逆もある。地面も凸凹だ。ただ、縦横に走り回れる広さがあり、向こう正面には鍵穴のような形状に穴が開いている。そこからは海が見えた。真っ黒な、泥のような海。
そして。
『ショートカット。本来行うべき手順を簡略化して術を行使する』
「源涯清醒……だな?」
篝火が壁際に掛けられたその場の中央に、直立している人影が一つ。
「先刻の小娘か」
背を向けていた声の主が晶穂を振り返る。低く鋭い声と共に。
「あれで死なぬか。おかしな躰だ」
それはこっちのセリフだ、と言いかけて、止めた。同時に足を止め、相手を、その周囲を、じっと観察する。
源涯の格好は、巨人を操っていた時から変わらない。洞穴に溶け込むように黒い法衣、剃髪された頭部、白刃のような両の眼。警戒するように、或いは憎むようにこちらを睨めつけているその視線は、話し合いの余地がないことを想起させている――るが、その背後へ視線のピントを合わせた時、晶穂はすんでのところで思考と緊張の糸を手放しそうになった。
モニターがある。
源涯のすぐ背後。中央に鏡の置かれた祭壇のように見えるそれは、よくよく見ると組み立て式のローテーブルのようだった。そして鏡の両脇には四十インチはあろうかという大きなモニターが二つ、デンと置かれている。どうやらそれらの背面には大型のバッテリーが置かれているらしく、電力はそれで賄っているらしい。陰になっていてよく見えないが、どうやらその他にもルーターや小型パソコンらしきものもあるようだ。
「意外と……ハイカラに暮らしてるなぁ」
晶穂はボリボリと髪を掻きながら、ついでに「あたしのスマホも充電していいか?」と尋ねてみた。源涯は――予想した通り――ピクリとも表情を変えない。意味が分かっていないのか冗談が通じないのか、その両方なのか。それは分からない。
分からないことは他にも無数にある。
飾荷ヶ浜一帯を覆う漆黒の殻。
その中を闊歩する複数種の化け物。
崩落し、海に消えていく大地。学校を襲った胸部以上しかない巨人。一瞬で晶穂の頭上に移動した源涯。その際に彼女が発した『厭離穢土』という言葉。そして――。
「――なんつうか。自分の才能が嫌になるぜ」
沈黙の支配する洞穴で、源涯の背後のモニターが音の無い淡い光を漏らす中で、晶穂は溜め息をついた。本心からのものだ。
「こんな時、呪術の力があればどんなに楽だったか、ってな。名前がわかってる相手を呪う方法なんざ、古今東西バラエティ豊かだってのによ」
「施しか?」
源涯は端的に問い返してくる。こちらの持ち札を開示した意味を、だろう。相変わらず鋭い声で、そこに油断は一切見えない。
「いいや、偉大なる先達への敬意さ。それともう一つ、交渉テクニックだ」
晶穂はわざわざ空の両掌を広げてみせた。考えねばならない。仮説を立てなければならない。今もって不明瞭な数々の事象の内、どれが源涯の手によるものか。
即ち、源涯の持つ特異能力は何なのか。
「レシプロシティって言ってな。人間ってのは、親切にされたらお返しをしたくなるもんらしいぜ?」
「成程」
源涯が薄く笑う。
「つまり高慢か」
「あんた、ひねくれものって言われねえ?」
少々呆れ気味に返しても、やはり源涯はピクリとも反応しない。岩のように不動だ。
「……いやな、実は聞きたいことがあってよ。あんた、極楽浄土を目指して船に乗ったんだって? 目的は? やっぱ観音菩薩よろしく衆生の救済ってヤツか?」
壁際の篝火が、ぼう、と音を立てた。
一瞬だけ強く燃えあがった炎が、大地に揺れる源涯の影を色濃くする。大地に染みつきそうなほどに。
「どうしてここら一帯を根切りしたがる?」
疑問を投げかけた瞬間。
晶穂の眼前に岩塊が現れた。
「な――」
それはあまりに突然で、かつ突拍子の無い事態だった。大人が両手を伸ばしても掴みきれない幅の巨大な岩塊が、晶穂の鼻先を擦る勢いで彼女の眼前に『落ちた』のだ。重低音と共に大地へめり込んだ岩塊は瞬く間に落下の衝撃に耐えきれずひび割れていき、強烈な重低音が洞窟中に響き渡る。
咄嗟に。
「――んだよ、問答は嫌いか?」
晶穂は後方へ跳んだ。呟きは相手に聞こえなかっただろう。突如発生した巨石の落下は、それほどの爆音を生んだ。そればかりか、砕けた岩塊と大地は津波のように礫と粉塵を生んだ。
視界が土煙に埋め尽くされる。
――何だ今の。
源涯の姿は粉塵に覆い隠されていた。煙に紛れることが相手の目的だったと考えて良いだろう。しかし、どうやって?
――天井を崩して岩を落とした? いや――。
「――おっと!」
微かに風を斬る音がして、晶穂は錫杖を背後に向けた。
ガキン、という甲高い音が響く。
「坊さんにしては血の気が多いな」
背後からの源涯の一振りを錫杖の側面で受け止め、晶穂は小さく笑ってみせる。どうやら相手の得物は脇差のようだ。刃渡り三十センチほどの小刀を、両手で硬く握りしめている。
黒衣を纏う尼僧は目を細めた。
その直後だった。
「『厭離穢土』」
晶穂は我が目を疑った。背後の尼僧、言葉を吐いたその姿が一瞬で消え失せたのだ。代わりに。
刺すような視線を足元から感じた。
「去ね」
「嫌だね!」
言い放ち、今度は錫杖を足裏から突き出した。射出台から放たれるが如く晶穂の体躯は宙を舞い、跳びあがるように突き出された源涯の脇差は空を貫く。程なくして、晶穂は洞窟の壁際に着地した。
傍で篝火が燃えている。
――『瞬間移動』か?
煙幕を作った直後、源涯は晶穂の背後に居た。そして次には足元に居た。この間、体感で恐らく一秒未満。今朝出会った特異能力者と同じ能力であれば実現できなくはないだろうが、逆に言うと何らかのタネがないとあり得ない動きだ、と晶穂は見積もる。だが……。
――違うな。辻褄が合わない。
「成程、血潮は流れているか」
ふと、薄くなった粉塵の向こうで源涯が言った。頬を触ってみると、成程、刺突が掠めていたらしい。少量ながら血が流れ出ている。
「……なんだ、あたしの髪が金だから人間だって分からなかったか? このご時世、ブロンド美人なんてネットでゴマンと拝めるぜ?」
「叩き潰しても死なぬ。尋常ならざると見当をつけるが自然であろう」
「ああ、小学校でのアレか。アレは……そうだな、そう思うわな」
巨人で殴りつけたことを言っているようだ。とすると、あの時の巨人をこの場に召喚しなかったのは、巨人がここに入りきらなかったからではなく、晶穂の人体強度を測りかねていたから、ということか?
「けど、結論を出すのは……ちっと早計かもな」
「私は鏖殺が成れば其れで良い」
「そうかい。納得いかねえな」
粉塵が引いていく。源涯の立ち位置は変わらない。脇差を片手に、じっと晶穂を睨みつけている。
「あんた、人を救いたかったんだよな? その気持ちはどこに行った?」
「説教か?」
「何度も言わせんじゃねえよ。こっちは大真面目に聞いてんだ。死を覚悟して海に出た人間が――」
『だから、力が欲しいんです』
「――その信念が、いつ、どうして空っぽになった? ……あたしは、それをどうしても知りてえ」
『力が欲しい。私たちのような誰かを、目の前の誰かを守れる力』
暫く、沈黙が満ちた。
源涯は、動かない。揺らめく炎に照らされているのに、その影すら、そしてその明滅すら固着しているかのようだ。
自らの額から汗が流れていくのを晶穂は感じていた。この時間が命取りであることも理解していた。小学校でも今しがたも、源涯は問答無用でこちらを殺しにかかってきている。まず間違いなく説得は不可能で、おまけに未だ相手の特異能力も分かっていない。ここは猶予も隙も与えず猛攻するのが最適解だろう。戦闘経験値だけは確実に晶穂に分があるのだから。
それでも、どうしても知りたかった。単なるエゴであることは承知の上で。
知らねばならないと考えたのだ。
「……会ったばかりの人間に話せる内容じゃねえか?」
「いや。話してやらぬこともない」
意外な返答と共に、源涯は薄く笑った。硬く厳めしい表情だった彼女は大きく息を吐き出し、目を閉じて、脇差を地面に落とす。
硬い岩の上で、脇差がカランと乾いた音を立てた。その時。
晶穂は全身の肌が粟立つのを感じた。
「語ってやろうよ。屍へ向けて」
まずい、と感じた時には、もう遅かった。相手は合掌と共に目を見開き、唱えたのだ。
呪文を。
「『欣求浄土』」
刹那。
心臓を直接掴まれたような衝撃を受け、晶穂はその場にどうと倒れ込んだ。





