ホロウ - 第62話
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強く引っ張られた。落ちる最中で。
予想だにしていなかった。誰が考えるだろう? 落ちる自分の体を宙空で掻っ攫おうとする者がいるだなんて。故に卓明は力の源を――自分の胴に回された腕を、反射的に殴りつけようとした。邪魔をされないために。
だが。
「俺を背負って歩いてくれたね」
声がした。強い声が。
「ありがとう。ああいうのを幸せっていうのかも知れない」
よく知っている声だった。
「着地する。舌を噛まないで」
視界がぐわんぐわんと揺れた。舗装されていない道に自転車で乗り込んだような衝撃。やがて、砂煙と共に揺れは収まる。
「……宇苑兄ィ? 何でここに――」
「話は『ながら』で。たっくん、暫く動かないでね」
卓明を抱えていた彼――宇苑は、そう言うと卓明が握っていた破魔の鞘を掴み取り、周囲に素早く目を走らせた。あの夏よりも尚鋭い目つきで。
或いは、笑っていたのかも知れない。
「ちょっと一掃する」
周囲から無数の叫び声が上がった。殺気立った獣達の咆哮――そんな感じだ。卓明はそこでようやく思い出す。
病院の敷地内、玄関口へ続く車道、そして幅広の歩道、芝地――その全てに白目の人々が立ち尽くしていたのを。彼らは闖入者たる卓明と宇苑へ殺到している。つい数時間前、民家にいた自分たちを襲撃しにきた時と同様に。
「っていうか危ないなぁ。ダメだろ三階から飛び降りるとか」
竜巻が起きた。一瞬、卓明はそう錯覚した。
それ程に宇苑の動きは常軌を逸していた。
「そういえばボス――あ、碓井のハゲおじのことね――に会ったんだって? 何やかんや甘いよねぇ、あの人。心配して駆けつけてくれるなんてさ。それはいいけど巻き込まれて行方不明ってどうなのかなぁ!」
正面からやってきた男性を鞘で殴り飛ばし、体を捻りながら右方の人々の足元を攫う。そのまま軽く跳躍して飛び掛かってきた男女複数人に閃光のような斬撃。着地と同時に蹴り。卓明を中心に、渦を描くように、襲い来る人々を撥ね飛ばしていく。
「ま、どうせ生きてるけどね。たっくんも心配しなくていいよ。何せ僕らのボスなんだもん」
丁寧で乱暴な一掃。映画のアクションシーンを更に倍速にしたような動きだ。腹部の怪我は大丈夫なのだろうか。それに――。
「宇苑兄ィ、それ誰から聞いたの?」
「真由ちゃんから。あれ、もしかして気付いてない?」
ふう、と一息ついて宇苑が立ち止まった時、三百六十度全方位から押し寄せていたゾンビじみた人々は皆、数メートル離れた場所に倒れ込んでいた。が、獣じみた咆哮は四方八方からやむことを知らず、倒れ込んだ仲間を押し退けて飛び掛かってこようとしている者も散見される。
「真由ちゃんはね、ナヲ婆や僕と同じなんだ。特殊な能力を持ってる。……うーん、コレちょっとキリがな」
唐突に宇苑の言葉が途切れた。猛烈な風の音がして、卓明は地面に引き倒される。
強烈な破壊音が轟いた。思わず耳に手を当てた卓明の頭上を暴風が駆け抜け、何か爆発したかのように病院上階層の一部が砕かれる。
礫、粉塵が無数に舞う。
「――乱暴者め」
鼓膜が正常な働きを取り戻すまで、恐らくは数秒。もうもうと土埃が舞う中で、立ち上がった宇苑が上空を睨んでいる。次第に視界が晴れてきた。宇苑の視線の先にいたのは――。
「……巨人」
卓明は呟いた。胸の下、腹部以降を切り落とした人間のようなシルエット。しかしそれは余りに巨大で、恐らく体高は三十メートル近くある。病院の屋上よりもなお高い。
頭部は目眩がしそうなほどに只管黒く、両眼は目に焼き付きそうな朱い輝きを放っていて、後頭部からは蛇の首に似た無数の髪の毛……のようなものが宙を撫で回している。猛スピードで蠢くそれらからは、鞭を振るうような音がひっきりなしに撒き散らされていた。
その巨人が、病院の敷地のすぐ際にそびえている。
「あれが小学校に出たやつ?」
卓明が頷き返したのとほぼ同時に、突如、咆哮が周囲から響き渡った。これまで宇苑がなぎ倒していた周囲の人々が立ち上がり、獣のように吠えているのだ。そして走っていく。足元のコンクリートを砕き、真っ直ぐに。
無脚の巨人へ向かって。
「嫌われてるねぇ」
「きっと俺たちよりも巨人の優先順位が高いんだ」
会話を掻き消すように強い風の音が響いた。鋭角的に軌道を変えた無数の巨人の髪が、走っていく人々とこちらとに向けて射出されたのだ。
大地が揺れる。
だが宇苑は事も無げに鞘を振るった。
自身の顔ほどの太さのそれらが、次々と宇苑の両脇へと叩き落されていく。体が浮かび上がる程の衝撃と轟音を連れて雨のように降り注ぐ巨人の髪は、一本たりとも宇苑に届かない。
「たっくん! 病院の奥に避難! ホラ早く!」
宇苑が叫ぶ。と、そこで何かが卓明の背にぶつかった。
濱野真由だった。真っ赤に目を腫らしている。どうやら病院の壁に走った巨大な亀裂、その隙間を縫ってやってきたらしい。尻餅をついたままの卓明の腕を痛い程に掴んでくる。
《卓明さん、離れよう! 私たちがここにいたら邪魔になる!!》
「それは……そうか、そうだね――ん?」
卓明は思わず真由の顔を見つめた。彼女もまた自分を見つめ返している。
「真由ちゃん。いま、声を――」
「おっ、聞こえた!? それが真由ちゃんの能力! 多分『伝える』とかそういうヤツ! じゃあ真由ちゃん、卓明を頼んだよ!」
雑な説明が放たれた直後、宇苑の姿は土煙の向こうへと消えた。跳躍したらしい。
次いで、剣戟、とは似ても似つかぬ重低音が闇に響き始めた。宙で無数の祭太鼓が打ち鳴らされているような音だ。どうやら宇苑はうねり狂う巨人の髪を足場に宙を跳び回っているらしく、正面前方上空には柿色の半纏が残影としてチラついている。時折、巨人が額を突かれたように軽く後ろへ仰け反っていて、どうやら宇苑の攻撃はしっかり届いている。おまけに駆けて行った人々も巨人に飛びつき始めたらしく、宙に浮く巨人の胸部は見る見るうちに人影で覆われていった。どこか死骸に群がる蟲の蠢きに似ている。
巨人の動きが鈍り始めた……ように見えるのは、卓明の気のせいか、それとも――そう考えた時だった。
不意に、無脚の巨人が大きく両手を広げた。両手は天を支えるように伸ばされていて、明らかに宇苑や胸部に取りつく人々に向けられたものではなかった。つまり交戦中に行うには余りに無防備な所作であり、それが故、卓明は無意識に首を傾げていた。
結果として、それは大いなる誤解であったと言える。
卓明の視線の先で、無脚の巨人は自らの頭上で強く両手を叩き合わせた。ぱん、という異様に澄んだ音が響き渡り――豪風と重低音が吹き荒ぶ戦場には余りにも不釣り合いなその音が耳に届いた直後、卓明の視界はぐるんと回った。
抗えず、卒倒する。
血が逆流するのが分かった。頭が異様に熱くなり、凄まじい悪寒がして、胃の中のものが競り上がってくる。全身の皮膚が裂けるように痛い。隣の真由も倒れたようだった。遠くの巨躯に飛びついていた人々や、宙をジグザグに跳び回っていた柿色の人影もだ。卓明の視界にある人々が、示し合わせたようにボロボロと大地へ落ちていく。落葉するように。
巨人だけが一人、悠然としていた。今だその両手は奴の頭上にある。真っ赤な両目が爛々と輝いている。
柏手を打ったのだ、と卓明は認識した。
理屈は分からない。だが理由は分かる。巨人を蝕もうとした周囲の総て――それどころか、十数メートル離れた位置にいた卓明たちをも巻き込む逆転の一手。それが、あの一拍だったということなのだろう。
思考する卓明の遥か正面で、巨人が両手を開き――そしてまた、勢いよく叩き合わせる。
澄んだ音と共に、世界がまた、裏返った。





