ホロウ - 第61話
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ここで死ぬのは自分だけなのだと内海多昭は悟った。
体は宙にあった。先程、渚那奈を放り捨てようと壊した壁。自分の体躯はそこから大地へ落ちている。
体当たりをしてきた血塗れの少年もまた、自分と同じく大地へ吸い寄せられている。だが。
――コイツ。コイツ。コイツ、コイツ、コイツコイツコイツコイツコイツ!
多昭は少年の顔を見上げた。宙空で多昭の首に馬乗りになろうとしている少年――その顔面は血みどろだが、しかし異様な輝きが両眼に灯っている。
狂気。
――俺の首を折るつもりだ!
背中が凍り付くような寒気が走る。腹の底で胃液が暴れているかのような不快感が四肢を侵した。
少年は手にした古めかしい鞘をこちらの首元に押し付けようとしている。このまま大地に雪崩れ込んだ場合、それがギロチンの役割を果たすことは明白だ。
――なんだ、ふざけんなよなんでてめーみてーなガキに! 俺が! てめえに何かしたかよ!?
スローモーションで世界が動く。真っ黒な空、病院から洩れる光、それに照らされる半死半生の少年。だが目の前の、自分を明確に殺すつもりの男は、恐らく死なない。生き延びる。
そんな直感があった。
内海多昭は悟ったのだ。少年は生き自分は死ぬという不条理で受け入れがたい直感。確信と言ってもいい。故に。
――呪ってやる。
彼は歯軋りをしながら胸中で呟いた。
――許さねえ。絶対に! 馬鹿にしやがって!
食い縛った奥歯が口の中で音を立てて砕けた。両の眼を限界まで見開き視線で刺し穿つつもりで少年を見た。
――死んだ後でも殺してやる、てめえが生き延びようとその先で殺してやる! 逃がしてたまるか、絶対に呪い殺してやる!! 絶対に――!
「死んだ親父がよく言ってたよ。『新鮮なものは間違いなく美味い』って」
不意に。
どこかで聞いたことのある声がした。
背中から。
「けどよぉ、親父は知らなかったんだよなぁ。死んだ後でもこんなに美味い肴があるってなぁ!」
ゲラゲラという笑い声が聞こえた。耳のすぐ傍からだ。
自分は落ちているのに。
声が喉元へと纏わりついてくる。
「良いツラしてるぜ最ッ高だ! お前、いっつも人の邪魔ばっかりしてたからよぉ! 俺もお前のこと全力で邪魔してやりたかったあ! あああああここまで動き回った甲斐がああああああ!!」
――お前! 一号か!?
ゲラゲラと悪意が嗤う。後ろを振り向こうとしても、体は真っ当に動かない。だが多昭には分かった。自らの背に憑いている男――どういう理由なのか一切理解できないが、とにかく自分を呪っているらしい男。
――てめぇ一号! 一号ッ!! てめぇ、てめぇかよこのガキ連れてきたのも俺がこうなったのも! 全部てめぇのせいか!
「一号なんて名前の奴ァいねえよ。俺は一号なんて名前じゃあねぇ。俺は一号なんて名前じゃあねぇ。おおおおおれはいちごうなんてなあああまえじゃあねええええ」
首に何かが這いずってくるのを多昭は感じた。ナメクジが粘液を垂れ流すかのようで、全身が粟立っていく。
「おれはあああいいいいちごうなんてええええええええ」
――黙れ! 馬鹿にしやがって馬鹿にしやがって馬鹿に! 見てろよてめえ、てめぇみてえなやつにナメられてたまるか!
ずるずると首元を這う『何か』。それが喉を強く押してくる。後方の声は変声器を無茶苦茶に弄っているかのようにキーが高くなったり低くなったりとグチャグチャに変化している。もはやまともではない。そもそもこの男に呪われる謂れなど全くない。
こんなことはあり得ない。あり得ていい筈がない。
――後悔させてやる! 死んでようが関係ねえ! コケにしやがって、見てろクソが! クソが! てめぇ! 呪ってや――!!
「おおおいおいぃぃぃぃ、ああ相手はおれでおれでいいのかああああ? ああああっちこっちぃぃ目ええ移りしちゃってよおおおお」
ゴキン、という音が体の内側から響いた。多昭の口は自然と開き、舌が汚らしく口外に押し出た。首を這っていたモノが喉仏を圧し潰したのだ。そこで多昭はようやく、自らの背に憑いているモノを視界の端に捉えた。
その男に首は無かった。
「こんばんはあああ、おれ、おれの名前はやまざき、やまざきやまやまやまやま」
――や、まざき――。
「はいじかんぎれェぇぇ。もう呪うじかんないねえええええええへえへえへ」
――あ。
幾重にも響く下品な笑い声をバックに、また骨の折れる音が響いた。
怨念が何処へ向かったか。
それを知るものは、何処にもいない。





