ホロウ - 第60話
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逃げろ、と彼は言った。
だから逃げた。とにかくメインホールへ逃げて、バリケードで塞がれた病院の正面入り口に行き当たって、仕方なく階段を駆け上がった。
何故か隠れてもダメなような気がした。
病院全体を揺るがす重苦しい衝撃と轟音が響いて、彼女は何度か転んだ。それでも駆けて、駆けて。
結局。
「よーぉ那奈ちゃあん? 探したぜ?」
三階の廊下で、彼女の背中は捕捉された。
傍にはガラスの割れた窓があり、冷たい風が吹き込んでくる。
「おーおー、そんな汗ダラダラ流しちまってまぁ! 辛そうにすんなよな、可愛い顔が台無しだぜ?」
両腿と顔面、右肩が肥大化した男。異形と化した体躯は三メートル近くあり、男の頭頂部は天井に届きそうだ。
男は一切の躊躇なく、殺意を隠そうともせずにズンズンと那奈の元にやってきた。そして、おもむろに右腕を振り抜く。
破壊音と粉塵が巻き起こり、彼女はその場に尻餅をついた。次いで。
粉塵の向こうから伸びてきた男の右腕が、彼女の首を強く掴んだ。
持ち上げられる。
「どっちがいいか迷ってたんだよなぁああぁ、俺。『どっち』が『いい』か? 分かるか?」
男は口の端から泡を吹いていた。余程興奮しているらしく、巨大に引き伸ばされた左眼が真っ赤に充血している。眼の中央でぐりぐりと動き回る瞳が、餌を求めて徘徊する虫のように見える。
「お前がやったように地面に突き落としてやるか。てめえの親父がやったように首ィ吊らせてやるか! 実はな、まだ決めてねえんだ。ま、思いついたのはこの病院に入ってからなんだけどな!」
ひ、ひ、と男が笑う。気味の悪い引き笑い。
最早、為すがままだった。
男は那奈の体躯を虚空へ突き出した。そう、虚空だ。先ほど振り抜いた男の右腕が作り上げた、大きな壁の穴。その先に那奈を運んだのだ。
首を締め上げられ、苦悶の中で足元を見遣る。
彼女を支えていた地面は無い。十数メートル――二十数メートル?――下で、ゾンビのようにフラフラと右往左往している、白目を剥いたままの人々の姿が見えた。病院の敷地内だけで見ても優に百人は超えているだろう。
落とされても精々足の骨を折るだけで、即死はしない筈だ。だが下の人々を見るに――一度襲われた時のことを考えるに――あの中に落とされることは、ひょっとするとただ死ぬよりも余程惨たらしい目に遭うこととなるかも知れない。
嫌だ、と渚那奈は思った。嫌だ。助けて。そう思った。
『どうしてもっと早く来てくれなかったんですか?』
ふと、脳裏に自らの言葉が過った。真正面からこちらを見返していた、金色の髪の女性を思い起こした。
『いまこの時間に、この場所に居る。それがあたしの限界だからだ』
彼女はそう言っていた。嫌だ、と渚那奈は思った。思い返して、改めて思ったのだ。嫌だ、厭だ、イヤだ。
――そんなの、まるでわたしの終わりが『ここ』みたいじゃない。この先には行けないみたいじゃない。
「たす……けて」
呟く。言葉が漏れる。眼前の男、その瞳がぐりぐりと動き回る。這いずり回る虫のように。
「はぁ? ……今更か。お前、那奈ァぁぁぁァ……お前も今更か!? オイ……!」
より強く首を締め上げられる。声も出せなくなり、彼女は自らを絞める男の腕を引き剥がそうとしながら、暗転していく視界の中で思い浮かべようとした。化け物の闊歩する街を抜けてまで、自分を探してくれた幼馴染の姿。自分を守ってくれる、自分が探し求めていた人。きっと奈落の底から這い上がってくる筈の――。
「――内海多昭ぃっ!!」
怒声が空気を劈いた。
自分を締め上げる力が少しだけ弱まり、涙目で彼女は声の方向へ――三階廊下まで駆けあがってきてくれたに違いない幼馴染の方へ目を向ける。
目を向けて。
彼女は暫く、その姿から目を離すことが出来なかった。
「……は? お前……」
正面の男が驚愕を漏らしている。その気持ちは、那奈にも理解できた。
病院の裏口で見た織田卓明は、左眼を残して全身が真っ黒になっていた。だが、今はその黒の一切が消えている。
代わりに表れたのは、傷。
頭部から流れ出ていると思しきドロリとした血が顔面の上半分を染め上げ、頬や顎の皮の一部は抉れており、中から肉が覗いている。体も顔も泥だらけ。しかし眼だけは白刃のように鋭い。それ自体が発光しているかのように。
『だから出来る限りのことをしようぜ。あたしも、お前もな』
また、脳裏に声が蘇った。自分を見返していた、あの白衣の女性の声。
どうして思い出すのだろう。
どうして――。
「――聞きたいことがある」
肌に痺れのような痛みを覚えた。静かな言葉なのに、それを向けられているのは間違いなく自分を掴んでいる男の方なのに、那奈さえも竦み上がるような圧力があった。
「き……きたいってお前、さっきまであんなに真っ黒で――」
「あんたは何のために生きてる? 何のために生きていく?」
自身が握る鞘の切っ先を異形と化した男へ向け、卓明は尋ねた。那奈は気付いた。
その視線の中に、自分が入っていないことを。
「何だ……なんだお前……それ、今ここで聞くことか?」
「何もないのか?」
「……あ? 何だてめぇ……偉そうだなァ。偉そうだなァ? 随分と上からじゃねえか、てめえぇぇぇぇ……!」
巨大な左眼、その毛細血管が浮き上がる。男は那奈を乱暴に廊下へと放り出すと、卓明へと体を向けた。
「たった今、ブチ殺しリストが更新されたぜ。那奈の前にてめえだ。やっぱてめえから殺す……!」
「『俺を殺す』。それが理由か?」
「あァ!?」
「それがあんたの理由かって聞いてんだ」
切っ先を下ろし、卓明が足を一歩踏み出した。
その双眸は爛々と、松明のように輝いている。
「あんたもギリギリだってことは分かってる。俺と同じだ。もうすぐ死ぬ。だからだ。だから聞きたいんだ。
教えてくれ。あんたの理由は、今この瞬間に生きてるのは、俺を殺すためなんだな?」
「ゴチャゴチャうるせぇぞガキィ! 何が言いてえ――!」
「尊敬する」
卓明がまた足を踏み出す。足元に血の滴を垂らしながら。
異様。
彼の様子を言い表すならば、その一言で満ち足りた。
「尊敬するよ、内海多昭。心から。俺はあんたと違う。もうちょっとで死ぬってのに自分が何をやりたいのか分からない。これまで考えたことも無かった。ただ何となく生きてた。自分の為に生きるって何をしたらいいのかな。分からない。ガキだなぁ。ホント、ガキんちょだ」
半ば呟くように、うわ言のように卓明は言って、それから深く息を吐いた。
だが、次に彼が息を吸い込んだ時。
「でもあんた邪魔だな」
その眼は一際に妖しく輝いた。
「何をするか考えなきゃいけないのに、あんたは俺を殺そうってんだもんな。邪魔するんだよな。なら邪魔だよ。あんたは邪魔だ。邪魔だ……」
織田卓明が歩く。ずんずんとこちらへ歩いてくる。
何なんだ、と異形の男が呟いた。その足が一歩、後ろに退いたのを那奈は見た。
「語ってんじゃねえよ……! ここァ喋り場じゃねえぞオラァ!」
「あんたは邪魔だ……」
「おい来ンな! お前おかし――!」
「あんたが! 邪魔だ!!」
「そりゃあお互いサマだろうがァァ!」
吠えるように男は怒鳴った。それは彼の最期の言葉となった。
肥大化した左腕を振り上げる男。ズンズンと歩きながら、手にした鞘の切っ先を男へ向ける卓明。
瞬間。
間違いなく、異形の男の体は硬直した。まるで炎に怯える野生動物のように、その左腕はその瞬間、一瞬、固まったのだ。
獲物を狙う獣が如く卓明が駆けた。素早く男の左脇に潜り込んだ彼は、異形の男、その肥大化した左腿へ、猛然と鞘を振るい打ち込んだ。そして。
体勢を崩した男へ全身をぶつけた。
断末魔の叫びが木霊する中、二人の姿は砕かれた壁、その向こうの虚空へ飛び出ていった。





