ホロウ - 第59話
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勉強机のライトが明滅していたことを思い出した。
机本体は木製のどっしりとした頑丈なものだ。しかしライトは安物で、アームで適当に固定しただけの代物だった。おまけに兄からのお下がりなのだから、利用年数的にもガタがくるのは致し方なしだ。
取り替えないとな、とボンヤリ思っていた。
もう取り替えることは出来ないんだろうな、と今は思う。
……卓明は右腕を動かそうとした。
動かない。
左腕。右足。……動かない。
左足……辛うじて動く。だから歯を食い縛り、うつ伏せのまま、彼は左足だけで体を前に押し出そうとした。
もう足音は聞こえない。多昭はひとしきり卓明を殴りつけた後、唾を吐いて去っていった。何処へ行ったか、は見えなかった。もう視界は黒に支配されていたから。
何処へ行ったか、は分かる。
病院だ。真由や那奈達のところだ。
「う……」
声が漏れた。喉は無事らしい。まだ中身までは染まっていないということだろうか。だが、いずれにせよ変わらない。
自分の意識が間もなく消えること。
多昭をカイ・ウカイへ変えることは出来なかったこと。
自分と兄を救った、あの夏の宇苑よりも図体は大きくなったというのに――あの夏の宇苑より、自分は遥かに非力だということ。
「……おれの……ばん……」
『何も出来ねえで死んでいく惨めさってどんな感じだ!?』
「……おれ……が――」
「『俺が』。……何だい?」
……不意に。
懐かしい声がした。
……気がした。
「やぁやぁたっくん……えらい真っ黒じゃあないか」
再度。
温かい声がした。
……気がした。
「いや、ホントすンげえ真っ黒だよ。凄いぜ? もう墨だよ墨。墨明! って感じ?」
……足音は無かった。つまり、卓明に近づいて来た者は居ない。
自分は独りだ。
独りの筈だ。
「なぁ。そんなになってまで一体何処に行こうっての?
もういいんじゃないの? よく頑張ったと思うけどな」
「……おれ……が」
「うん」
「まもら……なきゃ……」
腹の底からフツフツと湧き上がってくるものがあった。それに追い付かれたくなくて、彼は必死に足を動かそうとした。
死神の足音が声として届いていること。その事実が、卓明の体躯を突き動かそうとしている。
「……まだ……おれ……!」
「何を守らなきゃいけない? 幼馴染のあの子か?」
「……ちがう」
そう。違う。
違う。
これはきっと――。
「へー。ま、誰かしら守りたい人がいるってワケだ。それもそんな体で! いやあ立派だ。立派だと思うよ。……でもなぁ、たっくん」
――ああ、やめてくれ――。
「お前が本当に守りたいのはさ。どこかの誰かさんじゃあなくて、お前自身なんじゃないの」
――ああ――。
卓明は自らの体から力が抜けていくのを感じた。
自分の中の何かが折れた。
……そんな気がした。
「今まで誰を思い浮かべてたのか、それは知らないけどさ。俺には分かるぜ。
たっくんはその子を守りたいんじゃあない。その子を守って、自分が生き残った意味はあるんだって、俺はそれだけの価値がある人間なんだって、そう思いたいだけなのさ」
「……なんで……」
「『何で分かるか』って? それとも『何でそんなことを言うんだ』か? だってたっくん、お前はそんなやつじゃあなかったじゃんか。誰かの為に自分を犠牲にしてなんて、そんなカッコいい人間だったかい?
よぉく思い出してみなさいよ。誰かを守る。誰かを助ける。そんなこと、これまでの人生で一度でも考えたことがあった?」
なんだよそれは、と思ったことを、卓明は思い出した。今朝のホーム・ルームの時間でのことだ。渚那奈の高校生活が今日で終わりだと担任から聞いた時のことだ。事前に何の連絡もなく、教室から出ていく時も一瞥も無く去っていった那奈を見た時のことだ。
気になっていた筈だった。中学校に上がって暫く経った頃から、彼女の肌が白くなり、目に見えて華奢になっていったこと。笑顔が減っていったこと。
気になっていた。
だが、それ以上のことはしなかった。
「昨日まで呑気に飯食って友達と遊んで、平々凡々と暮らしてたお子ちゃまがだぜ? 真っ暗な街に放り出されて色々あったとはいえさ、そんな数時間で変われるもんかい?
無理だろ。無理さ。お前はガキんちょだよ。色々失くして、自分が生き残ったことに引け目を感じて、せめて自分を善人だと思い込もうとしてる『ただの切羽詰まった高校生』――それがお前の正体さ」
……言い返す気力も、その必要も無かった。言葉は紛れもなく真実で、ひたすらに全身が痛む。
『無くしたんだよ。家族も家も、俺は全部無くした』
「……だけど」
『けど』
「……だからって」
『だからこそ』
卓明は思い出していた。あの夏の日。破魔の太刀を握る宇苑の、刃のように鋭い眼。
『止まらない。死ぬまで絶対に止まらない――』
「――俺が止まる理由にはならない……!」
再び。……再び。
卓明は声を発し、微かに感覚を宿す左足へ万力を込めた。
折れた『何か』を継ぎ合わせようとした。
『宇苑ちゃんはずっとずっと遠くに行こうとする。だけど卓ちゃんはそうなっちゃダメ』
「婆ちゃん……!」
祖母の言葉を思い出す。あの夏の日に聞いた言葉は、孫の身を案じる祖母の、極めて俗物的で保守的な願望だった。
だが。
それは決して『生を諦めろ』という意味では無かった筈だ。
絶対に、その筈だ。
「……観念したら楽になれると思うぜ?」
「嫌だ……!」
「……無理したって結局死ぬのに?」
「まだ動ける……!」
「……死ぬまで止まらないのか」
「そうだ!」
笑い声が聞こえた。そこには一切の嫌味も、皮肉も、侮蔑や嘲笑も無かった。
「なら。これからは飾るなよ、卓明」
ずり、と体が前に進んだ。顎で地面を掻きつつ、見えない前へと目を凝らす。
「飾るな、卓明。誰かの役に立つから許してとか、誰かを守るから許してとか、そんな言い訳がましく生きるのはナシだ。お前は、お前の為に生きていけばいいんだ」
奥歯が欠けそうになるほど歯を食い縛る。力を足へ送り込む。
「だって、お前は俺の自慢の弟なんだぜ? これ以上にどんな価値が必要だっちゅう話だよ」
誰かに肩を叩かれた気がした。その温もりが、その言葉が、卓明の背中を強く押した。
「成し遂げてみせろ。生き抜いてみせろ。辛かろうと怖かろうと失うものがあろうと。いいか卓明、約束だぞ――」
――気づいた時。
凸凹の激しい、アルファルト道路の上に彼は居た。
「……俺」
呟く。
何度も目を開閉する。
両手は前方に投げ出されていて、その指先に破魔の鞘が置かれている。触れても痛みはない。
「なんで」
疑問を漏らしても、返ってくる言葉はない。だから両手を地面につき、上体を持ち上げ、彼は何度も自らの体躯を見返した。
掌も、破れた上衣の穴から覗く腕も、肌色だ。血と泥に汚れてはいる。だがそれだけだ。
視界もクリアだった。左眼だけ開けてみても、右眼だけ開けてみても、前が見える。アルファルトの上にぽつんと置かれた鞘が見える。
「……兄貴?」
問いかけても、やはり返ってくる言葉は無かった。
破魔の鞘を強く掴んだ。





