ホロウ - 第57話
「いや……何だも何も。那奈を殺すために来たんじゃないんだろ? ここに明かりがあったから来たんだろ? ならそういうことじゃないか。
何て言うか……白けたよ。『死ぬ前に何としてでも』とか言ってたけど、結局のところ那奈を見つけて頭に血が上っただけじゃんか」
単純だよな、と卓明は吐き捨てた。
多昭の右顔面に血管が浮き上がった。
「オイ。誰に口利いてんだガキ」
「お前だよ。他に誰がいる? そんなことすら分からないのか? あんたさぁ」
卓明は鼻で笑った。嗤ってみせた。
腹を括った。
「よく無能って言われない?」
――風の唸る音がした。
後ろの二人を突き飛ばす。
「逃げ――!」
言い切ることは出来なかった。咄嗟に顔の横へ左腕を持ち上げたが、それを貫通する程の衝撃が全身を叩いたからだ。
一瞬の浮遊感の後、何か硬いものに背中からぶち当たる。
息が出来ない。
「そこで泣いてろ。後で殺してやる」
数メートル先から聴こえる多昭の声。体の至る所で骨の軋む音がする。が、歯を食いしばって体を動かした。
どうやら門扉の内側に停められていた自動車の一台、そのフロントガラスに突っ込んでいたらしい。ボンネットを滑り降り、走る。ボロボロとガラスの破片が体から溢れていく感触の中、卓明は腰に提げていた太刀の鞘を掴む。
灼けるような痛みが両手を襲った。
『鞘を持っていて。多少の神気を帯びてるから――』
宇苑の言葉が脳裏に過る。痛みの理由は明白だ。
自分はもう、破魔の力が及ぶ存在へと変化しつつある。
「真由ちゃん立って! 走るんだ、早く!!」
駆ける。前方に歪な左腕を持ち上げる多昭が見える。院内に向かって駆け出した那奈が見える。尻餅をついて目を見開いている真由が見える。
全身の痛みを吹き飛ばすように叫んだ。叫びながら走りながら無我夢中で鞘を振りかぶった。
多昭の腕が真由を殴り飛ばすよりも前に、振り下ろした鞘は多昭の左腿を打った。熱くなった鉄板に冷水を垂らしたような音が響く。それと多昭の悲鳴も。
次いで。
頭部に尋常ならざる衝撃。
再び宙を吹き飛んでいく。やがて地に落ちた彼の体躯は勢いそのままに、荒れたアスファルトの上を転がった。
「そんなに死にてえッてんなら!」
怒鳴り声が響く。体が止まる。
大地にうつ伏せになったまま、卓明は右手を握り締めた。
掌に微かな感触がある。破魔の鞘、その感触だ。それは痛みでもある。
「ご希望通りてめえから殺してやらァ!!」
――良かった。まだギリギリ人間だ。
卓明は心の底から安堵した。キーンという高い音が脳内に鳴り響き、心臓が破裂しそうな程に脈動している。口の中には血の味が広がっていく。
「……俺の番なんだ」
うつ伏せの体で腕を引き、渾身の力を込める。上体を持ち上げ、足を曲げ、少しずつ立ち上がる。
音が聴こえる。足音だ。乱暴に、蹴るように地面を踏む足音。
近づいてくる。
殺意の籠った足音が。
――そうだ、こっちに来い。俺のところに来い!
「俺がやらなきゃいけない。俺がやるんだ。守られるんじゃない。俺が守るんだ」
彼は呟いていた。自分に言い聞かせるために。
「……今度は俺が――!」
「なに一人でブツブツ言ってんだ気持ち悪いィなぁあ!!」
再び衝撃と痛みが卓明を襲った。立ち上がりかけていた体躯が、アスファルト道路から森の中へと吹き飛ばされる。来た道を戻るかのように。
体が内側から悲鳴を上げている。耳の奥も腕の中も足の筋肉も背中の骨も何もかもが全てが痛い。
痛みの中で、更に衝撃が全身を駆け抜けた。強く樹に叩きつけられたようだ。
「……俺が守るって。自分で言ったろ……」
足に力が入らず、樹の幹にもたれかかるようにして、そのまま尻餅をついた。
視界に陰が混じった。残された左眼。その眼球に闇が侵入し始めている。
時間が消えていく。
残された、人間としての時間が。
「何だ。何だ何だ何だァ? 何だてめえ、アレだけ喧嘩売ってもうそんなヘロヘロか? おい。おーい。おーーーい!!」
脳天から痛みが駆け抜ける。次は頭頂部から思い切り殴りつけられたらしい。
うう、と呻き声を漏らし、卓明は地面に倒れ込んだ。
『これからは怪我したところを地面に触れさせちゃいけない。これ以上、黒いのを広げないために』
「ンだよ、張り合いねえなぁア! もっと根性見せろや。あァ?」
強く頭を掴まれた。割れるように痛かった。だが相手は構うことなく、まるで卵を持ち上げるかのように卓明の顔を摘まんで持ち上げる。
足が地面から離れる。
頭の皮が、肌が裂けそうだ。
『地面に触れさせちゃいけない。これ以上、黒いのを広げないために』
「あ、う、う」
「おい、何だ泣いてんのか? やめろや俺が弱いもの虐めしてるみてェじゃねえかよ。さんざ俺のことボロカスに言っておいてよ? 泣きゃあ良いと思ってんじゃないだろうな?」
掴まれた頭蓋がギシギシと音を立てた。あまりの痛みに卓明は大声を上げた。
「さっき言ってくれたよなぁ、てめぇ。誰が無能だって? その無能に泣かされてるてめえは更にどうしようもねえ犬っカスだァ!!
なァ! 馬鹿にしてた相手に殺される気分はどうだ? 手も足も出ねェ気持ちはどんなもんだ? 何も出来ねえで死んでいく惨めさってどんな感じだ!?」
「……あ、あ」
ボロボロと涙が流れていくのが分かった。痛みの中で押し殺せずに漏れる自らの声を彼は聞いた。
聞きながら。
「あ……謝る……よ」
彼は、掠れる声で言った。
『これ以上、黒いのを――』
「謝る……謝るよ……!」
再び声を絞り出す。それでようやく、相手の耳にも届いたらしい。
残された視界の向こうで、体躯に漆黒の球体をくっつけた男が、眉をひそめているのが見えた。
その首から下は、球体同様に黒い。
黒。
真っ黒だ。
「謝る……俺……さっき、嘘ついた……!」
「はァ?」
男は嗤った。嗤っていた。心底軽蔑するように。
「今更? おい。今更か? ……今更謝って俺がてめえや那奈を殺さねーでおいてやるとでも思って――!」
「そっちじゃない……!」
卓明は嗤った。意趣返しとばかりに嗤った。嗤い返した。
「お前と兄弟なんて心ッッッ底ご免だ……! 死んだほうがマシだっつーの……!!」
ぶつんという何かが切れるような音が聞こえた気がした。しかし、最早構う道理は無い。
卓明は右手の鞘を、相手の左腿目掛けて全力で投げつけた。
多昭が大声で悲鳴を上げる。その痛みが嫌というほど卓明には理解できた。
漆黒の肉体にとって、破魔の鞘は赤く輝く火掻き棒のようなものなのだ。
激痛に耐え切れず、多昭は卓明を離す。反射的に左腿へ手を当てようとする。卓明は大地に落ちる。
倒れそうになりながら、卓明は渾身の力を足に込めた。そして前へ――膨れ上がった多昭への足へと飛びついた。
――倒れろ! 地面に倒れ込め!
我夢者羅だった。痛みなど、この先で自分がどうなろうとどうでも良かった。いま最も重要なことは、頭の天辺から足の爪先に至る全細胞を総動員させるべきことは、唯一つ。
多昭の黒化を進行させること。内海多昭を完全なカイ・ウカイに変貌させること。光を忌む化け物へと転じさせること。
――そうすれば明かりの灯った病院には入れないだろ!
雄叫びとも唸り声ともつかぬ何かを喉から絞り出して、卓明は多昭の足に噛みついた。多昭がまた悲鳴をあげた。ネズミを丸呑みした蛇を彷彿とさせる左腕を滅茶苦茶に振り回した。
それは卓明の脇腹を強く打った。卓明は強風に巻き上げられる小枝のように吹き飛び、再び泥土の上を転がった。
視界が明滅する。
血の味が喉の奥まで染み込んでいく。土の匂いに血の匂いが混じり、血が流れ出る音が聞こえる。
「うう……!」
歯を食い縛った。残された視界は僅か。辛うじて多昭の姿が見える。
それでいい。それで十分だ。
「うああああああ!!」
獣のような叫び声と共に、卓明は痛みに悶え苦しむ多昭へ飛び掛かった。





