ホロウ - 第56話
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「俺はよォ、あの時――俺ん家が地面から崩れた時! そこのクソ女に突き落とされたんだ!!」
異形と化した内海多昭が怒鳴った。その場の誰もが凍り付いたように動けない。それは卓明も同じだ。
「信じられるか!? あれだけ俺が良しなにしてやったってのに!! で、結果がコレだ!! 海にゃあ落ちなかったぜ、ギリギリな! だが瓦礫の山に落ちた! あの黒い化け物たちが何体も群がってやがったど真ん中にだ!!
俺の気持ちが分かるか? あれだけ近寄られねえようにしてたってのに自分から飛び込んじまった俺の気持ちが!! あァいやいや違う違う違う、自分からじゃあねえ!! なァ那奈ァ!? お前のせいだ! お前が俺を突き落としたせいだ!! 守ってやってた恩も忘れてなァ!!」
多昭が右腕を振るう。肩に黒球を宿した奇怪な右腕は、人間にあるまじき力で多昭の傍の塀を打ち砕いた。
轟音が、卓明の内臓を強く震わせる。
――まずい。
自身の額に脂汗が滲み出ているのを卓明は感じた。心臓の鼓動が激しくなっていく。
肌が痛い。針のように鋭い怒気が、多昭の全身から発せられている。
「嘘だと思うか? なぁ兄弟? 俺が嘘をついてると思うか!?」
「……分からないけど、あんたがマジで那奈を殺そうとしてるのは分かる」
「そうさそうだ、分かってくれて嬉しいぜ兄弟! 俺ァよ、生まれて初めてかも知れねえ! こんッッッッだけ!! 死ぬ前に何としてでもやり遂げてえって思うことに出会ったのは!! なァ! 俺たち死んじまうんだぜ!? 昨日まで普ッ通に暮らしてたのによ何でこんなことになっちまったんだろうなァァぁぁ!!」
「あんた、自分には御守があるって言ってただろ」
卓明は脂汗を拭った。真由と那奈の二人を自分の背中で隠すようにしながら、口の端に涎で泡を作っている多昭へ、ゆっくりと、諭すように言う。
大声はまずい。いつ病院の表側にいる白目の人々に気づかれるか分かったものでは無い。
それに……ここには誰も居ない。
自動車を蹴り飛ばし、コンクリ塀を軽く殴り潰す。そんな異形と戦える者は、ここには居ない。磐鷲も宇苑も、ここには居ないのだ。
――とにかく時間だ。時間を稼いで、何か策を考えるんだ。
「……あんたの言う通り、俺は多分間に合わないと思う。あと何分か、何十分かは分からないけど、確実にカイ・ウカイに……あんたの言うところの黒い化け物になる。でもあんたは違うんじゃないのか?
いま那奈が言ってた。外からここに助けが来たって。だからもう少し待てば――」
「戻れると思うか、こんな体になったヤツが? 本ッッ気で言ってんのかオイ、ガキぃ!!」
戻れるワケねえだろ、と多昭は怒鳴った。野犬が吠えるかのように。
痛みに似た刺激が大気を伝って肌を刺し貫く。
『俺がこの子を守らないと』
「何で! 何ッッッで俺がこんな目に遭わなきゃなんねぇんだよ!? 俺が何かしたか、あァ!? 殺されなきゃいけねぇことをよぉぉ!! なぁ那奈!? まさかお前、てめえの親父が死んだのを俺のせいだと思ってんのか!? そうだったらお門違いも程があるぜ。あいつァ勝手に死んだ! 自分で借りた金も返さずに首ィ吊りやがったんだぞ!! 俺が恨まれる筋合いがどこにあんだ? なァ
!!」
一歩、多昭が足を踏み出した。那奈が強く自分の服を掴む。
それが一層、多昭の激昂を駆り立てたらしい。
「なんだなんだなんだてめぇおいコラ那奈ァ!! なに男の後ろに隠れてやがる。お前が!! 俺を化け物にした張本人だろうが!!」
多昭が喚く。吠える。
卓明は横目でチラリと後ろを見た。那奈ではない。真由を見た。
……少なくとも、彼女の黒は頭に達していない。
『磐鷲さんが居ないなら俺が代わりに』
「オイ兄弟!! 特別にもう一回言ってやる。サッサとその女ァ俺に渡せ! そうすりゃアお前らは殺さないでやる。渡さねぇなら……分かるよなぁぁぁ?」
もう一歩、多昭が足を踏み出す。全力を込めて踏みしめたのだろう。轍の出来上がった大地が軋み、ヒビが入った。
相手の巨大な左顔面――いや、大人の頭部程はある巨大な目が、文字通り血眼となって卓明を睨みつけている……。
『今度は俺の番なんだ。俺が宇苑兄ィと、真由ちゃんを守る』
「……俺の番なんだ……」
「あァ!? 何か言ったか兄弟! 渡すか渡さねえか、てめえが喋っていいのはそれぐらいのハズだぜ!?」
「渡す」
「さァさっさと決め……んん?」
卓明は額の脂汗を拭った。予期していなかった言葉なのか、先ほどまでぐりぐりと動き回っていた多昭の左眼、その瞳が停止している。
「……いま『渡す』って言ったよな?」
「……ああ。言った」
「たくあき?」
後方から呟きが聞こえた。虚を突かれた――そんな風だった。だから、卓明は少しだけ頭を後ろに向け、多昭の耳に届かないように小さく言った。
「合図をしたら全速力で病院の中に逃げろ。真由ちゃんもだ。いいな?」
――考えろ。どうしたらアイツに対抗できる?
「何だよ。そんなに驚くようなことか? 俺だって命は惜しいんだ。それにあんたの言った通り……俺とあんたは同じだ。もう戻れない。もうじき死ぬ。……お互い、やり残したことがあるまま死ぬのは嫌だもんな」
――違う。俺とアイツは同じじゃない。
嘘八百を述べながら、卓明は脳を絞るように思考を巡らせた。自分と多昭が全く同じであれば、自分にも相手と同じ膂力が生まれて然るべきだ。
だが、自分にそんな力は無い。
「……そうかいそうかい。いや、てっきり抵抗されるだろうって決めつけちまってたぜ。化け物の合間を縫って俺ん家までやってきたヤツがよぉ、そう簡単にてめェの女を渡すとは思ってなかったもんでね」
「那奈は俺の女でも何でもない。ただの幼馴染だよ。ここ数年はまともに喋ることも無かった」
「おォそうかい! なら――」
「待ってくれ。那奈は渡す。だけどその前に質問させてくれ」
息を吐き出す。
体中が震えていた。
「あァ? 質問?」
「言ったろ。お互い、やり残したことがあるまま死ぬのは嫌な筈だって。俺は……せめて死ぬ前に知っておきたいんだよ」
――ちくしょう、何も思い浮かばない!
「あんた、どうしてここに来た? ここに那奈が居るって分かってたのか?」
思いつくままに言葉を紡ぐ。縋るように言葉を吐き出す。胸の中では不安が燻り、腹の底がじわじわと締め付けられるようだ。
何をどう考えても、今の多昭に対抗する術など思いつかない。自分と多昭の違いなら分かる。相手が持っているという『御守』だ。
御守によって多昭はカイ・ウカイにぶつかっても食われずに済んだ。無論、無傷ではない。カイ・ウカイを自らの肉体に封じ込めるように、両腿や肩や顔面に黒球が埋め込まれた状態になった。或いはそうして球体化した両腿や肩が、それに順応しようとした肉体が、間近に迫る死への本能的防衛力によって怪力を生み出している。
つまりは、単なる火事場の馬鹿力――そう考えることも出来る。
しかし、そうして理屈をつけたとて同じだ。多昭に対抗しうる力、いま最も必要な力が卓明には無い。その事実に変わりはない。
「……なァ。その話、いま関係あるか、兄弟?」
「俺の予想じゃあ……あんたはここに那奈が居ると思ってやってきたんじゃない。単にここ以外はもう、黒い化け物たちが集まってたり、地面が崩れてたり……近寄れる場所じゃあ無かった。違うかな?」
御守を奪う、というのはどうか?
――いや、無理だ。アイツがいま、どこに御守を持っているのか分からない……!
「なぁ、頼むよ。俺はここで、飾荷ヶ浜で育った。でもここ以外の場所がどうなったのかを見回る余裕も無くここまで来た。だからせめて死ぬ前に、自分の生まれ育った土地がどうなってるのか知っておきたいんだ。そしてもし……もし家族や友達が生き残ってるかも知れない場所があるなら、誰かに言伝を頼んでおきたい。化け物に変わる前に、感謝とか……そういうのを伝えられるようにしたいんだ。な……俺たち、『兄弟』だろ?」
――『変わる』?
お願いします、と弱弱しく繰り返してみせながら、尚も卓明は考えた。考え続けた。
何か。……何かを見つけた気がしたのだ。
「……まぁいいか。いいぜ、いいとも。それでお互い気持ち良く割り切れるってんならな。何より、他ならねえ兄弟の頼みだ」
どこか大袈裟な溜息をついてから、多昭は瞳を斜め上に向ける。
記憶を辿る仕草は、人間と変わらないらしい。
「てめえの言う通りさ、兄弟。もうこの病院以外の土地はあらかた崩れちまってる。町の中央以南は海の底だ。まだ住宅街の方にゃ幾つか家も残ってたが、そう遠くない内に沈むだろうよ。ここくらいだぜ? 煌々と明かりがついててよ、いかにも『ここは無事で御座い』ってな場所はな――」
――『明かり』……。
多昭が街の様子をベラベラと喋っている。要するに多昭は那奈の居場所を感知できるわけではなく、残された土地であるこの病院にやってきて、たまたま那奈の姿を目にしたということらしい。
「……何だ。つまり、あんた覚悟して来たんじゃないのか」
思いついた時。
卓明は無意識に言葉を放っていた。
「あ? 何だと?」





