ホロウ - 第55話
肩透かしを食らった晶穂を放って、磐鷲はむくりと立ち上がった。その姿は冬眠明けの熊に似ていなくもない。が、とにかく――彼は傍の壁面に手をつきつつ、ブツブツと呟き始める。
「『たった一人』――そうだまさしく、全く持ってその通り。これは到底、人間が一人で成し得る業ではない。そうか。だからか」
「だから? オイ、どうでもいいが立ち上がれるくらい元気になって良かったなハゲ」
「ああ、感謝するぞ。霧が晴れた気分だ。あと俺はハゲではない」
「あの。碓井さん、つまりどういう……?」
「この事件は源涯一人によって引き起こされたものではないということです。ここで起きている怪異は、恐らく相当な年月、そして複数の人物の思惑によって出来上がっている」
怪訝な表情の栄二を横目で見ながら、晶穂は狭い横穴の中でゆっくりと歩く磐鷲の言葉を待つ。
遠くからまた、地鳴りが聞こえてきた。
「話しながら考えてはいたのです。無論、先ほど述べた仮説が全く不可能というわけではない。世の中には我々の常識を遥かに超えた特異能力者が存在する。仮に源涯がその類の存在であれば……そう思いながらも、どこかで納得できていない自分が居た。いくらなんでも無理があるのではないかと」
「思ってたんかい」
「そもそも仮説の出発地点から疑念はあった。源涯を保護した宮司は、なぜ彼女を洞窟の奥深くなぞに匿ったのか? 相手は捨身行を実践するほどに徳の高い高僧で、おまけに当時の神社仏閣の区切りはひどく曖昧なものだった。だから自然な流れであれば、源涯は綿舩神社にて静養することになる筈だ。
栄二さんの見つけた文献、その秘匿方法も奇妙だ。既に民草の間に流布されている伝承、それに毛が生えた程度の情報を、わざわざ有力者だけで保持し続けて何になるのか? 『人食い徳吉』が許されて『源涯清醒』が許されなかった理由は? 答えは一つ。源涯は極めて現実的なリスクだった。この地方に住む者たちにとって、決して忘れてはならない爆弾――言い換えれば、一種の祟り神のような存在だった。少なくともそう思わせるだけの何かを持っていた」
「何か……何か、とは?」
「例えば。人に生きながらその身を喰われた源涯が、ナヲ子さんのような『他者を操る力』を保持していたとしたら――いやそこまでいかなくとも、他者を心酔させ、自らの手足と出来る程のカリスマのようなものがあったとしたら。いずれ彼女の境遇に同情し、その復讐に手を貸す輩が現れないとも限らない。
文献の中途半端な隠し方はそういうことではないかと思う。迂闊に源涯へ手を出すことは出来ない。かといって放っておくことも出来ない。故に危険な存在として、極一部の人間のみ知る秘密とした。そうして飾荷ヶ浜は続いていた」
晶穂は黙っていた。
確かに、そういう解釈も出来る。
「だが五年前、源涯は行動を起こした。いや、五年よりもう少し前に協力者を得て動き始めたと考えた方が自然か。協力者から現代の情報を聞き出し、復讐の準備を行う必要があるからな」
「そういうことであれば」
不意に、栄二が口を挟んだ。人知れぬ洞穴の奥底で滴が岩の上に落ちるような、静かな、それでいて鋭くもある口調だった。
「『協力者』については見当がつきます。兄・継一が言っていたもう一つの情報でもあり……私もその蛮行を目の当たりにしました。ヤツは――」
名を告げられても、晶穂にはピンと来なかった。だが、どうやら栄二とひどく近しい間柄である人物らしいことは分かる。
「……協力者が現れたことは、ナヲ子さんへ危機が迫っていることを知らせるきっかけにもなった。こう考えると、現在のナヲ子さんの暴走――認知障害の中でも無数のイトヒキを操っているという事実にも理由がつく。症状が出る前、ナヲ子さんは源涯を止める術を考えた。そして症状が出た後、それは『黒い怪異に人々を取り込まれないようにする』――ひいてはイトヒキによる人々の殺害という結論に至ってしまった。手段の一つであることに間違いは無い。犠牲者が増加しかねないという点には目を瞑る必要があるがな」
「ボス、お気づきかい? まーた大方の部分を想像で進めちまってるってことによ」
「だが多くのことに辻褄が合う。例えば、イトヒキと化した人々は黒い怪異への攻撃が可能だった。普通の人間だと触れるだけで取り込まれる怪異たちにだ。これはナヲ子さんが以前からイトヒキたちへ霊的干渉力を与えることを想定したことを物語っている。
源涯を止める。そのための策を何が何でも実行する――そう言った意識や使命感を自身に強く刻んでおかねば、今のナヲ子さんのような振る舞いは到底不可能だ」
「それはつまり」
ふと、栄二が口を挟んだ。彼は座り込んだまま、視線を動かすこともなく、ゆっくりと尋ねる。
「イトヒキと化した人物は皆、少なくとも黒い怪異たちに取り込まれることはない。……そう考えても良いのでしょうか」
『妻が地上に居ます。雷瑚さんの仰るところのゾンビモドキとして』
しばらく、晶穂も磐鷲も無言だった。栄二の知りたいことは分かる。どういう答えを求めているのかも。
だが。
「あんまり言いたかぁ無いが」
晶穂は深く息を吐き出し、頭上を見た。
磐鷲が床の上に置いたスマホで微かに照らされる洞窟の天井は、低く、何より黒い。
「絶対に取り込まれないとは言い切れねえんじゃねえか。人間離れした動きを無理やり引き出されてるんだ、いつ肉体側に限界が来てもおかしかねえ。だから例えば」
「晶穂」
「例えば大勢の怪異に一斉に触れちまったり、怪異にまともに突っ込んじまったりしたら。その時は――」
「晶穂!」
「何だよ! 誤魔化して元気づけろってか!?」
「違う。見つけたぞ。
この岩盤の先に道がある。恐らくはそこに」
源涯が居る――磐鷲は壁に右手をつけながら、静かに告げた。





