ホロウ - 第54話
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「過去の話をしよう。
数百年前、飢饉に喘いでいたこの地方に小舟が流れ着いた。中には尼僧が横たわっており、これを見つけた村人たちは彼女を食った。その村人の一人が鬼と化し、今でもどこか洞窟の奥底で罪に苦しんでいる……これが飾荷ヶ浜に伝わる『人食い徳吉』なる伝承だ。
十年ほど前、この地に修行に来た宇苑は、恐らくはこの徳吉なる人物――鬼の殺害を遂げている。故に、この伝承には多少なりとも事実が含まれていると考えて良いだろう。
ところで、織田さんが発見した文献によると、この伝承には更に続きがあるらしい。曰く、当時の神社ではこの尼僧を保護した。そして今も宮司の一族は尼僧を守り続けており、尼僧もまた、深い洞窟の奥で世の太平と人々の救済を祈り続けている……」
「そりゃご立派な尼さんだ。ところで、どうしてもツッコミたいんだが」
思わず晶穂は口を挟んだ。
「その尼僧ってのは食われたんだろ?」
「そうだ。おまけに衣服まで剥ぎ取られて売り飛ばされたらしい」
「いけしゃあしゃあと言ってんじゃねえよ。食われて死んだ人間をどうやって保護するってんだ」
「そこだ。広く伝わっている『人食い徳吉』伝説と織田さんの言う文献とでは、明らかな矛盾がある。考えられる可能性は二つ。どちらかに誤りがあるか、或いはどちらも正しいか」
「どちらも正しい?」
「問題の文献を発見できたのはつい一時間程前のことです」
今度は栄二が口を開いた。彼は視線を落とし、言葉を慎重に選んでいるようで、ゆっくりと、ポツリポツリと先を続ける。
「数年前、私の兄・継一は、亡くなる一週間程前に私へ二つ、奇妙な話を伝えました。『もし自分の身に、そしてこの飾荷ヶ浜に何か異様な事態が起きたら』……そう前置きして。
そこで聞いた話の一つが、公民館に秘蔵された文献についてでした。特定の書架に、一般職員では触れられない古い書物がひっそりと保管されている。母の許可を得たら、母と共にその書物を閲覧しろ――残念ながら母は兄が亡くなるのと同じタイミングで重い認知症に罹り、今日この日まで文献を目にすることは叶いませんでしたが」
晶穂の脳裏に、つい先ほど――気を失う前に見た人物の姿がよぎった。巨大な顔と腕だけの化け物――その頭上に現れた、漆黒の法衣を着た尼僧の姿。
「日本は古くから寺社と権力者に深い関わりがある。文献の隠され方を見ても、この伝承は特定の地位あるいは権力を有する者に伝えられてきたものと考えた方が自然だろう。さて……以上を総合して、ここからは俺の仮説を話す。
晶穂、『補陀落渡海』という言葉を知っているか?」
「フダラク……聞いたことはあるな。漫画だったか小説だったか……何だっけな、即身仏みたいなもんだったような気がする」
「違う。勉強不足だ餓鬼が」
「何だ、やんのかハゲ」
「補陀落渡海というのはですね、人々を極楽浄土へ導くために単身船に乗り込んで浄土を目指すという過酷な修行のことなんです。過酷というよりも死出の旅、捨身行の一種と言いますか。そういう意味では、雷瑚さんの仰る即身仏とも共通した部分はあります」
不穏な空気を察したらしい栄二が間に割って入る。晶穂は少々反省し……かけて、喧嘩を吹っかけてきたのが他でもない磐鷲であることを思い出し、反省を撤回した。話が終わったら錫杖で思い切りケツをひっぱたいてやる。
「……数百年前、源涯という尼僧が補陀落渡海に臨んだ。この捨身行で用いる船に出口は無い。行者が入った船室は外から板を打ちつけられ、潮流と波に全てを委ねる形で、船は海を進んでいく。真っ暗な船の中で何十日もの間、西方にあるとされる浄土へ辿り着くため、そしてそれが人々の救済に繋がることを信じて唯々祈り続ける。目的地に辿り着けたか、それとも海の藻屑と沈んだか……補陀落渡海に臨んだ者たちの結末は様々だっただろう。だがいずれにせよ、想像を絶する苦行であったことは想像に難くない。
話を戻そう。結果として源涯は浄土ではなく、この地――飾荷ヶ浜へ漂着した。彼女は飢餓に苦しむ農民たちに発見され、その身を喰われた。だが死には至らなかった。源涯は栄二さんの先祖――当時の綿舩神社の宮司に保護され、恐らくは今現在、俺たちのいるような地下洞窟の奥底で生き永らえることとなった。
源涯はこの地の人々を呪った。補陀落渡海に臨んだ崇高な使命感は、自らの身を喰らわれた恨み――よりにもよって自らが救おうとしていた衆生によって生き地獄を味わうことになったという事実により怨念と化した。そして五年前、源涯は行動を起こした。
或いは、それは一種のリハーサルだったのかも知れん。源涯は黒い影のような怪異を使って人々を惑わし、結果として栄二さんの兄・継一さんを殺害。更にナヲ子さんに強大な負荷をかけ、認知障害を引き起こす程のダメージを脳細胞に与えた。そして現在、源涯はこの地を闇に閉ざし、飾荷ヶ浜全域を――」
「おい。もう一回ツッコんでいいか?」
晶穂は首に手を回しながら言った。ずっと同じ姿勢だったせいで、傾けると骨がパキパキと鳴る。痛みは……無くは無いが、異様に長い話のお陰で回復し始めているらしい。
「あんた、いつから三流怪談師に転向したんだ? あたしゃデブの妄想が聞きたいわけじゃねえんだがな」
「不満か?」
「まさしく。今のは仮説じゃねぇ、妄想っつうんだ。指摘してやろうか? まず源涯が補陀落渡海の行者だったなんてどうして分かる?」
「『人食い徳吉』の伝承が物語っている。尼僧が乗っていたとされる船の形状はこうだ。『木造の甲板、船の中央に藁葺の船室、船室の四方に鳥居が設えられ、船室には外から蓋がされていた』。これは日本各地に残る補陀落渡海船の特徴と一致する」
「じゃあ二つ目の指摘だ。当時の医療技術や衛生観念的に、体の一部分を人に喰われた人間が生き残れる可能性なんざどれだけある? 怪我人に馬糞食わせてたような時代だぞ」
「ゼロではない。事実、怪異はこうして起きている」
「陰謀論者の常套句使ってんじゃねえよ。ああもう、次だ次! 三つ目! 五年前に黒い怪異が出てたなんて話、どこから出てきた?」
「その点は間違いない。今回、俺たちに助けを求めてきた栄二さんの甥・卓明くん――宇苑にとっては弟のような存在らしい――彼からの手紙にそういった記述があった」
「何が『その点は』だ! 他の話にゃ大した確証がねえって言ってるようなもんじゃねえか!
四つ目! ってか最後かつ最大の指摘だ! 体を喰われた挙句に数百年生き永らえ無数の化け物を従えて宇苑の兄貴の師匠を戦闘不能に追い込んだ上に半径五km以上のバカでかい結界を張りつつ小学校の校舎よりデカい特大怪異を生み出す! 人間がたった一人でそんなこと出来るとでも思ってんのか!」
「晶穂!」
「あぁ!? 何だやっぱやるかハ――!」
「その通りだ」
「――ゲ?」





