ホロウ - 第53話
「あっ、道路だ。皆さん、道路が見えました!」
卓明が後方の人々に声を上げる。彼の言う通り、坂道は十数メートル程で終わり、その先には舗装された一車線道路が敷かれていた。一面の森の中、一筋だけ走る凸凹なアスファルト道路。その硬い地面に辿り着いてから左方に目を遣ると、煌々と光を宿す病院がすぐ近くに見える。
「裏門があるみたいだ。緊急搬送口……じゃなくて物資搬入口かな。門扉があるし、そんな感じだよね」
相変わらず汗だくで、疲労困憊の色が傍目にも強く見て取れる卓明だが、真由は『返事』が気になって仕方が無かった。自分は声を出せないし出そうともしていない。にもかかわらず、どうして。
「ほら真由ちゃん、もうちょっとだ! 頑張ろう!」
そう笑ってみせる卓明は、右顔面はおろか左顔面までも顎や耳の辺りまで黒が侵食している。実はもう、ほぼ全身が黒く変わっているのではないだろうか。そして時が来れば先ほどの誰かのように――。
「さっきの人のことは考えないで。考えちゃダメだ」
今は進むんだ、と卓明は言った。今のは……返事のようにも聞こえたし、そうでないような気もする。
もやもやしたまま、真由は卓明に連れ添うようにして病院の門扉まで歩いた。鉄製の大仰な門扉から病院の裏口までは数メートル程で、表側に居た白目の人々もいない。それどころかライトを照らして向かってくる真由らに院内の人々も気づいたらしく、近づいていくと門扉を開けてくれた。
そこからは、とんとん拍子に事態は進んだ。
避難民たちは――例え体に黒変が見られる人でも――無事に院内に迎え入れられたし、宇苑も担架に乗せられていった。卓明はというと、避難民の最後の一人が門扉を通るまでずっと、迎え入れてくれた病院の大人たちにここまでの経緯を説明し続けた。続けて軽トラックや自動車のライトを門扉の外に向けるように配置することを提案したりと、とにかく慌ただしく動き回った。
「真由ちゃんは病院の中に入ってて。宇苑兄ィについていてくれると嬉しい」
彼は途中でそう告げてきたが、真由は首を縦に振らなかった。口が裂けても言えないし言うつもりも無いが、小学校からここまで昏睡し続けたままの宇苑より、卓明の方がよっぽど頼りがいがある……というのが率直な気持ちだ。それに、不安もあった。
ここで別れると二度と彼に会えなくなるではないか、という不安。
道中で避難民の一人がカイ・ウカイに変貌してしまった――その事件が不安の根元にあるのだと彼女は思った。見えぬ声の主が彼女に掛けてきた言葉のこともある。もし自分が離れている間に彼がカイ・ウカイへ変貌してしまったら――その決して低くはない可能性が、真由をその場に留まらせている。
自分ではそう考えていた。
「卓明」
その考えに疑問を抱いたきっかけは、後方から響いた女性の声だった。
卓明と共に振り向く。
搬入口からこちらに駆け寄ってくる女性が居た。院内から洩れる白熱灯の光を背中に浴びてやってくるその姿が、最初は真っ黒な人影に見えて、真由は思わず卓明の服を掴んでいた。だが。
「やっぱり来てくれたんだ」
真由のことなど視界に入らないといった様子で、女性は思い切り卓明に抱き着いた。
「えっ、あっ、えっ!? あ、那奈!?」
――はぁ?
「信じてた。来てくれるって」
「えっ、あっ、うん。那奈は……その、怪我とか無い?」
たじろぎながら卓明が尋ねる様を――いや、違う。真っすぐに卓明に抱き着いた渚那奈を、真由は呆然と見つめていた。
前回会ったとき、この女は卓明に一言も発さなかった。
それなのに、この態度の変わりようは一体何だろう。薄気味悪ささえ感じる。
「大丈夫。ここに来る途中で、外から来た境講? の人に会ったの。でもそれより、卓明がわたしを探しに来てくれたのがうれ」
そこで渚那奈の言葉は途切れた。ゆっくりと卓明の胸から顔を離した彼女は、恐らくようやく目に入れたのだ。もう、左目の周辺以外は漆黒に染まってしまった卓明の姿を。
「境講の人が外から……そっか、そうなのか。ひとまずお互い無事で良かった。あ、でも俺はこの通りまっくろくろすけでさ。あんまり近寄らない方がいいかも」
卓明は誤魔化すように笑いながら渚那奈の肩に両手を置き、ゆっくりと自身から離した。その様子に安堵半分、不快半分で、真由は卓明の隣に陣取り、彼の服の裾を掴む。
冗談でも、言って欲しくないことはある。
「……そうだな、ごめんな真由ちゃん。あ、そうだ那奈、あいつは? 内海のプー……じゃなくて、内海屋敷で一緒にいたヤツ。那奈がここに居るってことはあいつも一緒なんだろ?」
「いいやァ? 一緒じゃあねえなぁ」
不意に、声がした。後方――門扉の向こうから。そしてその直後。
「そんな女とセットにしてもらわねえでくれるか? なぁッ!!!」
心臓に割り込むような巨大な重低音が響き渡った。思わず耳を塞いだ真由の視線を何かが横切っていく。そして再度の重低音――いや、破壊音。
塵風が吹き荒れた。
頭の上に細かな礫が降ってくる。目を細めると、舞い上がる土埃の向こうに、病院の壁面に頭から突っ込んでいる自動車が見えた。
「よぉ坊ちゃん嬢ちゃん。お互いギリギリのところで死んでねえみたいで嬉しいぜ」
再び声がした。門へ目を向ける。
粉塵の先に男が立っていた。但し、そのシルエットは人間のそれでは無かった。それが人間の男と分かったのは、発している声が真由も以前に聞いたことのあるものだったからに他ならない。
即ち。
「あんた、内海の……!」
「そう言えばしっかりご挨拶してなかったか? んじゃあどうも! 俺ァ内海多昭っつう金貸しだ!
いやぁもうマジで本気に嬉しいぜ坊ちゃん! 何せ俺たちゃこんなナリだ、もう兄弟みたいなもんだと思わねぇか?」
大声と共に粉塵の向こうから現れた男――内海多昭。内海屋敷で会ったチンピラ男。その姿は確かに、卓明の――そして真由自身の――体躯と似ているところがあった。
真っ黒だ。
破れた衣服の下から覗く肌が、首の下から爪先まで真っ黒だ。頭部も一部分は黒に侵されている。左顔面だ。一方、自分たちと似ても似つかない――それどころか人間か否かすら疑わしいシルエット、その正体を真由は見た。
男の左顔面、右肩、両腿。それらが、まるで熱した餅の如く巨大に膨らんでいた。
膨らみの大きさは直径一メートルほどだろうか。獲物を丸呑みした蛇の体躯を思わせる両腿のせいで身長は以前よりも高くなっている。何より、膨張により男の鼻も口も左側だけぐにゃりと歪んでおり、顔の半分近くを占有している左眼は、真っ赤に充血した状態で見開かれている。
恐らく、もう閉じることも出来ないのだろう。
「なぁ兄弟! へへッ、一人じゃねえッッてのは嬉しいなァ! 化け物直前のお仲間がいてくれて救われた気分だァ。んでよ、兄弟のよしみでよ、一つ頼まれてくれよぉ。なぁ。死んじまう前の最期の頼みなんだ。
……そこのクソ女を俺に渡せ。ブッ殺してやる」
左眼の巨大な瞳を動かしながら、内海多昭は渚那奈を指さした。





