ホロウ - 第52話
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濱野真由の視点で道中に起きた二度目の問題。それはまさしく、飾荷ヶ浜総合病院の直ぐ前で発生した。厳密には、それは『起きた』ではなく『起きていた』或いは『待ち構えていた』と表現すべき事態だったのだが、そんなことを彼女らが知る由も無い。
ただ、敷地をぐるりと囲む塀に沸き立ちかけた避難民たちを制し、真由と共に塀の内側――総合病院のロビーへと続くなだらかな坂、そこに敷き詰められた茶色のタイルと整備された車道を注意深く覗き込んだ卓明の、その行動は慎重かつ賢明であることは間違いない。それが大勢の命を救ったと言っても過言ではないだろう、と真由は思う。
総合病院の敷地内――数十メートル先に見える二枚の自動ドアまでの間には、無数の『白目の人々』が佇んでいた。
「……これは」
後方で誰かが呟いたのが聴こえた。その後に続く言葉こそ無かったものの、容易に想像はつく。「どうしようもないのでは」――そんなところだろう。
途中の坂道では有効だったが、この場で黒い卵による誘導を試みるのは困難だ。敷地内の人々は呆けたように病院の入口を見つめてピクリとも動かず、ともすれば人形のようにすら見えるが、一度自分たちを見つければ獣の如く襲い掛かってくるに違いない。それくらいは真由にも容易に想像できた。何せ人々の合間を縫って見つめる先、ロビーに続く自動ドアの向こうには、無数の机や椅子、棚などが山積みにされている。バリケードを作ってようやくこの膠着状態を作った――そんなところだろう。
病院の全フロアには煌々と明かりがついている。中に居る人々は、カイ・ウカイら黒い怪異の退け方を知っているらしい。そしてそれは、中に無事な人々が存在していることの証左でもあった。だが自分たちは――少なくとも今の状況から判断するに――その『無事な人々』に混ざることが出来ない。
眩い輝きが、白熱灯の光が、遠い。
「ど、どうする……?」
ふと振り返ると、卓明の近くに数名の大人が寄ってきていた。ずり落ちそうになったのか、背中の宇苑をゆっくりと背負い直しながら、卓明は一つ、息を吐き出す。
真っ黒な両腕に、真っ黒な半顔面。その両方に汗が滲んでいる。疲労は頂点に達していることだろう。
だが。
「少し、病院の周りを見てまわりましょう」
卓明は真由の想像していたよりも速く、はっきりとした口調で意見を述べた。
「あいつらが少ないところとか、気づいてない通用門とかがあるかも知れない。少なくとも救急搬送用の入り口は何処かにある筈だ。
あの、この病院に詳しい人って居ませんか? 手分けして入り口を探しましょう。……真由ちゃん、ちょっと待っててね」
こちらに少しだけ視線を向けて、彼は宇苑を背負ったまま、一列縦隊で進んでいた避難民達の後方へ向かっていった。それを待っていたかのように、大人たちがあれやこれやと意見を述べ始める。周囲を見回るのは危険ではないか。近くに黒い化け物たちや、あのゾンビのような人々が潜んでいないとも限らない。襲われたらひとたまりもないだろう。
「でもじっとしてるのも良くない」
卓明が毅然と言い放っている。彼は続けて言った。覚悟を決めるべきだ。いや、もう何人かは覚悟を決めた筈だ。
――両手を捨てた時に?
真由は尋ねたかった。覚悟。それはつまり、自分が真っ黒になった時に『どうなる』のかを予想しているということだろう。だから尋ねたかった。
――本当にそれでいいの?
奇しくも卓明は言った。『真由とは今日会ったばかりだけど』――そんなよく知らない子供のために自分を捨てるつもりなのだろうか。本当に? もしかすると、彼にとっての動機は真由というより宇苑を守ることの方が強いのかも知れないけれど――そう考えていた時だった。
悲鳴が聴こえた。はっきりと。
「どうし」
近くの大人を押しのけ、後方――縦隊の後方へ駆けようとした卓明の動きは、そこでピタリと止まった。真由も同様だ。
自分たちの数台後ろについてきていた軽トラックの荷台にカイ・ウカイがいた。
有り得ない、と真由は思った。
軽トラックや自動車は前方向けのライトはおろか、ハザードランプや車内灯を点けていて、避難民達も懐中電灯やランタン、果ては各車両備え付けの非常灯すら持ち出して自分たちを照らしているのだ。遠目に見ても自分たち一行は随分明るい筈で、そのド真ん中にカイ・ウカイが現れるなど考えられない。
『俺たちの体の黒くなった場所……ここはもう、半分は俺たちの体じゃなくなってる―― 』
――考えられるとしたら――。
『あの黒い怪物たちと同じようなものに――』
「ソイツから離れて!」
誰よりも早く動いたのは、卓明だった。宇苑を少々乱暴に地面に寝かせて駆け出した彼は、腰のベルトに提げていた太刀の鞘を握って、出現したカイ・ウカイに向かっていく。いや、正確には向かって行こうとした。だが。
「痛っっ……!」
まるで薔薇の棘に触れたかのような声と共に、彼は鞘を取り落とした。その隙に、軽トラックの荷台に立つカイ・ウカイは、傍の老人に近寄っていく。
「逃げ」
卓明が叫ぶ。老人は悲鳴を上げて動けない。カイ・ウカイがその体に覆いかぶさる――少なくとも、その場の誰もがそれを予期した。
結論から言うと、その予期は外れた。
カイ・ウカイは老人の傍をするすると通り、軽トラックの荷台から飛び降りた。若者がバスのステップから停車駅へ降りるような、軽やかな動きだった。そして、その場でじっと佇む――。
「だあああ!」
その隙に鞘を拾い上げた卓明が、気合とも気炎ともつかぬ声を発しながらカイ・ウカイに近づいた。様々なライトに照らされ、その周囲に幾重もの影を生み出しながら。
彼は鞘を迷い無く振り下ろした。
カイ・ウカイは呆気なく弾け飛んだ。
次いで、べチャリと汚物を吐き散らしたような音がした。
真由の位置から正確な状況は分からない。だが、周囲の人々が上げた悲鳴と、よろめくように後退した卓明の様子から判断するに、撒き散らされたのは――。
「――やっぱり、黒化が進むとカイ・ウカイになるんだ」
「そうだ。おまえらにはもうじかんがない」
突然、声が聴こえた。卓明の呟きに呼応するかのように。
真由は周囲を見回した。大人たちは皆、声を上げたり卓明に近寄ったりしている。
声が聴こえているのは、自分だけらしい。
「ぼうずもちかくばけものにかわる。だがそうなるまえに」
聴いたことのある声だった。あれは確か、内海屋敷に向かう時に――。
「うらにまわれ」
――裏?
声に導かれるように、真由はゆっくりと避難民達から離れた。騒ぐ人々、その声を落とせと制する人々の傍を過ぎて、来た道を戻っていく。経年劣化によってボコボコになったアスファルト道路を、避難民の列に沿うように進み――暫くして立ち止まる。
道路の端。病院を取り囲む森の一部。だが、立ち止まった丁度その地点は、彼女の腰くらいまで伸びた丈の高い草が生い茂ってはいるものの、幹の太い広葉樹は生えていない。
思い至って、目の前の草を掻き分けてみる。
「真由ちゃん!」
背後で卓明の声がした。振り返ると汗まみれの卓明がいる。宇苑を背負っていないところを見ると、騒ぎの中で真由の姿が消えたことに気づき、慌てて――というところだろう。
何でこんなところに、と言いかける卓明の真っ黒な腕を掴み、掻き分けた草の先を示して見せる。
「……道?」
道は道でも、獣道のような細長いものでは無い。荷車――いや車でも何とか通れるだけの幅はある。アスファルトで舗装などはされていないが、土がむき出しで、湿った大地の方々に木々の根がせり出していた。数メートル先はもう闇で見えない。だが、どうやら急こう配の下り坂になっているらしい。丈の高い草が通せんぼしていたのは、この下り坂が危なっかしいせいだろうか。それとも道そのものが危ないせいだろうか。
「ここからうらぐちにまわれ」
また声がした。卓明を振り返ると、彼もまた何かを見ているようで、まだ黒に染まっていない左目周辺を細めている。
「まただ、あの人……内海屋敷前で見た人だ。この先を指さしてる」
道案内をしてくれているのは間違いなさそうだ。だが、どんな理由があってそんなことをしているのだろう。
「分からない……けど」
卓明は決意を固めたようだった。彼は直ぐに避難民たちのところへ走り、大人たちと何事か話し合って……そして。
「よし。行こう」
再び真由のところへ戻ってきた時には、再び背中に宇苑を背負っていた。どうやら説得に成功したらしい。
「ちょっと曖昧なんだけど、むかし使われてた裏手に回るための道だったような、って言ってくれた人が何人か居て。今はもっと南の方からぐるっと回り込む感じに道路が敷かれてるらしいんだけど……一応ここも車は使える、っていうか使ってた? らしい」
――そんな道を、どうしてあの声の人は知ってたんだろう。
「さぁ……俺たちを先導するためにわざわざ調べてくれた……とかだったりして」
宇苑を抱えての下り坂はかなり大変な様子だったので、真由は負担を減らすべく卓明の後ろに回り、背負われている宇苑のお尻を押し上げて進む。背後からは同じく道をついてくる避難民たちがいて、ブレーキを強く踏み込みながら刻むように道を進む背後の軽トラックのお陰で、前方はかなり明るく照らされている。この分なら、何とかこの坂道も――。
――卓明さん、いま私に返事した?





