ホロウ - 第48話
一瞬、体が強張る。……が、朋美は何も言わずにカイ・ウカイの消滅を見送り、その後、スタスタと陥没孔へと進んでいった。そして異様な高度で跳躍し、校舎跡に着地した後、何やらウロウロと動き回り始める。獲物の痕跡を探す肉食獣のように。
「……何なんだ……」
改めて声を発する。それが何かの刺激になったのかも知れない。卓明は不意に思い出した。
崩れた高校の校舎跡で次々に押し寄せてきた、無数の黒い人影たちのことを。
「……もしかして探してるのか? 黒い奴らを?」
――何のために?
決まっている。いま正に目の前で見たところなのだ。
叔母は恐らく、校舎跡に出現するであろう黒い人影や、カイ・ウカイたちを攻撃しようとしている。
――でも、少し前は俺たちを殺そうとしていた筈じゃ?
「……優先順位があるんだ」
思えば、磐鷲と漂着した辺りには、カイ・ウカイたちは全く現れなかった。見かけたのは家の奥で静かに存在していた黒い卵くらいだ。不自然では無かったか? それまではどこに行くにも奴らは現れていたというのに。
連れ去られたお祭りの会場――あそこもそうだ。黒い怪異は居なかった……ように思う。
那奈たちが隠れていた内海屋敷――いや、あそこには化け物たちが現れていたのだとプー太郎は言っていた。となると、やはりそうに違いない。
叔母や、叔母のようになっている白目を剥いた攻撃的な町民たち――彼らは化け物を掃討しようとしているのだ。自分たちが襲われたのは――。
「俺たちもカイ・ウカイに捕まると化け物になるから?」
頭の中で無数の考えが波のように押し寄せてくる。これまで考えていなかったこと。考えようとも思わなかったこと。無数の疑問が湧いてくる。例えば。
卓明は再度、真由に目を向けた。彼女は一瞬、怪訝そうにこちらを見たが、そのすぐ後にまた何かを目に留めたようで、卓明の後方を指さした。
その指先までも、今や真っ黒だ。
――何で黒くなりかけている人と、そうでない人がいるんだ?
兄は……そんな変化は起きていなかったように思う。体育館で怪我の治療を行っていた人々もそうだ。校庭を警戒するように動いていた人々も。磐鷲もそうだ。一方で校庭や体育館で倒れていた人たちは、体のどこかしらが黒くなっていた。差異は何だ。どこにある。変色している者たちとそうでない者。その差は。
「怪我だ」
卓明は立ち上がった。真由の指さした方を見ると、叔母のように白目を剥いた数名の町民が、ゾンビのように覚束ない足取りで校舎へと進んでいる。よくよく見れば隣の公民館も破壊されているようだが、逆に言うと、地割れはその辺りまでしか続いていない。
何より、先ほど叔母がそうしたように、彼らの異常な身体能力をもってすれば、卓明らの前に出来上がった大地の断裂を飛び越えることなど造作も無い。彼らが校舎跡の掃討に満足したら、次は――。
「――真由ちゃん、行こう」
少し強く彼女の手を握り、卓明は体育館へ早足で歩いた。校庭と校舎は見るも無残な状況だが、体育館は驚くほどに無傷だ。これも分からない。
あの巨人は、ここに何をしに来た? それに、そう、そもそも……そもそもだ。
カイ・ウカイや黒い人影は、この町を覆う黒い空は、一体なんだ。
……分からない。いまここに居る誰も答えは持ち合わせていないだろう。唯一、それに近づけたかも知れない磐鷲も――恐らく死んでしまった。
だが。
「皆で移動しましょう。座り込んでないで、早く!」
体育館の入り口付近で言葉を失い、茫然としている人々へ向け、卓明は毅然とした口調で告げた。皆が驚いて卓明を見つめ返してくる。
「見てた人もいるでしょう。巨大な化け物が校舎を破壊して消えました。ここもいつ同じになるか分からない。それに、あの校舎でウロウロしてる人たち――俺たちは彼らに襲われる可能性がある。っていうか俺とこの子は元々、あいつらから逃げるためにここに来たんだ。だからまた逃げないといけない。
皆で行きましょう。ここから北に行けば病院があるから、そこに怪我人も連れて行きましょう」
「ちょっ、ちょっと待って」
「君、何か知っているのか? 何がどうなってこんな」
数名が怒ったように――いや違う、焦っているのだ――卓明に声を掛けてきたが、卓明は「何も分かってません!」と怒鳴った。それから体育館に入り、入口すぐ傍に寝かせたままだったもう一人の兄・宇苑の体を掴む。
「何も分かってませんが、北の飾荷ヶ浜総合病院の方が多分安全だ! だから急いで移動するんだ! 動ける人は無理してでも立って! 動けない人には手を貸してあげてください! もう一回言います、北の飾荷ヶ浜総合病院です! あそこなら電気もあるし薬もある!」
――磐鷲さんは「病院に行くのは止めだ」って言ってたけど。
「早く! このままここに居たら、次こそホントに死ぬぞ!」
確信を言葉に変え、体育館の内部に投じる。困惑に満ちた空気の中、卓明は真由に手伝ってもらいながら、何とか宇苑を背負った。
「俺は行きます! それから校舎には近づかない方がいい! 正門から出るので、一緒に行く人は急いで準備してついてきてください!」
もう一度、声を投じた。それでも困惑したままの人もいれば、慌てた様子で動き出す人もいる。その様子を少しだけ見て、それから彼は、傍らの少女へ目を向けた。
『町の人も見捨てるの?』
『僕はヒーローじゃないから』
夜の始まり、闇夜を進み始める前の工場跡で宇苑と交わした言葉を、卓明は今になって思い出していた。
今なら分かる気がする。
自分もヒーローではない。家族でさえ助けられなかった。
だが、それでも。
――考えるんだ。磐鷲さんが居ないなら俺が代わりに。せめて宇苑兄ィと真由ちゃんだけでも生き残る方法を。
ヒーローはおろか、路傍の塵でしかなくても。
「絶対に止まらない。……死んでも、絶対に」
呟いた言葉に、隣の真由が不安げに自身を見つめていたことを、卓明は知る由も無かった。





