ホロウ - 第46話
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『しょーちゃん、よぉ聞きや』
病院の裏口――古く、既に使われていない物資搬入口で、こちらにはゾンビモドキと化した人々が一切居なかった――から外に出て、『それ』を目にした瞬間。晶穂の脳裏に、出立直前の先輩講員・卜部嵩の言葉が過った。
『あのよー分からん天丼……ちゃうわ、天道? とかいうヤツに最後に使ってた技。あれ、使ったらあかんで。よっぽどのことがあっても使わんでどうにか遣り繰りせなあかん』
怪訝な表情を向けると、嵩は怒り心頭と言った調子で続けたものだ。
『当たり前やん! 今朝やで、今朝! あんたが常世遺物を使えるようになったのが今朝で、まだ半日経ったかどうかくらいや。少なくとも一週間くらいは様子見んと! ただでさえ常世遺物はよく分からんモンなんや、反動で何が起きてもおかしない。っていうかそもそもホンマに行くのん? ホンマやったら絶対安静やねんで? 依頼してくる方も依頼してくる方やし、受ける方も受ける方やわ! どいつもこいつも!! どいつもこいつもや!!!!』
それに、と嵩は言った。
『今のしょーちゃんにはあれが奥の手になるわけやろ? 昔から言うやん、切り札は先に見せるな、見せるなら更に奥の手を――』
少年漫画を参考に戦いの駆け引きを語ることの是非は置いておくとして、嵩の言い分自体は正しい。院長からは彼が知っている限りの情報を引き出したとはいえ、それでも尚、この町で何が起きているのかは杳として知れない。
不明確な事態に、不明瞭な術で対抗する。彼女に除霊のイロハを叩き込んだ磐鷲が聞けば卒倒しかねない。だがそれでもなお、彼女は遥か南に見えた巨大な『それ』を眼に捉えた瞬間、ほぼ無意識に左手を前方へかざしていた。右足は後方へ。今朝会得したばかりの構えを取る。
いま動かないと間に合わない。
彼女の中の何かがそう叫んでいた。直感。そう呼ぶべきものだろう。論理を飛躍した決断に晶穂は自ら薄気味悪さを覚えた。どうかしているとも思った。今から放つ術に明確なイメージこそあるものの、本当にイメージ通りの動きが出来るという保証はどこにも無い。これまでの彼女なら、何度か事前に試行を繰り返し、どのように戦術に組み込むかのパターンを構築して――実践投入は更にその後となった筈だ。
だが。
「ぶっつけ本番」
既に決断は終わっていた。右腕に万力を込める。
赤雷が彼女の右腕、その肌の下を這いずり回る。
その輝きを。
「『天狛狗――』」
かざした左手へ、全力で――輝きを押し出すように――叩きつけた。
「『――吶喊』!」
赤雷が獣のような咆哮を上げた。衝撃が彼女の立つ大地を陥没させ、雷の化身となった錫杖が、攻城兵器の如き勢いで闇を裂いて飛ぶ。その刹那に。
晶穂は杖の底部・石突を掴んだ。
血のような赤が視界一杯に広がった。自分自身が縦に引き裂かれるような感覚。自分の意識が引きちぎられるような錯覚。飛翔する紅き光の尾を掴み、彼女は宙空を高速で飛ぶ。だが、それも束の間。
「ッッッッッッってえッ!!」
頭蓋が砕けたかのような衝撃が脳から足の先までを揺らした。狙った場所へと無事に到達できたものの、そこは岩盤のように硬かったようで、ぶつかり跳ね返された衝撃のまま、晶穂の体躯は虚空を舞う。
最中。彼女は見た。
遥か眼下に三階建ての白い校舎。校庭には二十数人ほど。体育館と思しき建物の入口辺りにも数名。皆こちらを見上げている。否、彼らが見上げているのは、『こちら』ではない。
皆が見上げているもの。そして北の病院で晶穂が目撃し、ここまで――常世遺物の力を使って光速で空を飛び、やってきた原因。
巨人、と呼ぶべきだろう。
シルエットだけで言えば、甲冑を着込んだ人間のそれに近い。
岩盤をくり抜いて作られたかのような真っ白く硬質的な両腕、天の闇を注ぎ込んだかのようにどす黒い頭部。顔面には傾いた楕円が二つ、Vの字を作るように埋め込まれている。恐らくは眼球の働きを担う器官なのだろう。朱く、紅く輝いている。
口や鼻や耳は無い。おまけに胸から下も無い。無脚だ。その代わりとでも言わんばかりに、頭部の後方からは十や二十を優に越える夥しい数の触手が生えていて、空をまさぐるように蠢いている。それらの先端には目のそれに似た朱が灯っていて、暗闇の中、校庭に配置された自動車のヘッドライトによって照らされるそれらは、宙を縦横無尽に動き回る蛇の群れにも見えた。
体高は傍の校舎よりもなお高く、肩幅は常人のおよそ十倍、と晶穂は見てとった。無脚にもかかわらず屹然と聳えていられるのは、幽霊の如く宙に浮いているからか?
「随分とデカい胸像だな」
頭から大地へ落下しつつ、晶穂は無脚の巨人に呟いてみる。呼応するように、巨人は再び大きく両腕を振り上げた。再び――そう再びだ。彼女が病院で目撃した時も、無脚の巨人はこうして両腕を振り上げていた。故に晶穂は吶喊し、故に無脚の巨人は姿勢を崩した。校庭に棒立ちしている人々を見るに、その判断は誤りではなかった筈だ――が、正解とも言い難い。
危機は未だ去っていないのだ。
「何してんだてめーら、さっさと逃げろ!!!」
大声を張り上げた途端、止まっていた時が加速したような気がした。
無数の悲鳴が上がる。人々が走り出している。風の唸る音がした。見ると晶穂の小さな体躯に向けて、巨腕が迫ってきている。先ほど不発に終わった破壊を、今度は晶穂を巻き込んで行うつもりらしい。
『ただでさえ常世遺物はよく分からんモンなんや、反動で何が起きてもおかしない――』
「――悪いな嵩姉」
真っ逆さまに落下しながら、再度左手を前方に翳した。赤雷を右腕に漲らせる。眼前のこれがどういう化け物で、何が目的でこの場所を破壊しようとしていたのか、それは今もうどうでもいい。間違いないことがあるからだ。
「行くぜ」
ここで力を使わなければ、無数の命が消える。
「ぶっ潰れろ!!」
晶穂は叫び、自身の左手へ、右手を押し込めるように叩きつけ――。
「お前も」
――ようとした、まさにその直前だった。
皺がれた、聞きなれない声がした。
「理の守り人か、小娘」
晶穂は目を見開いた。
巨人の頭部。黒球の頂点。そこに。
人が居る。
――尼僧?
晶穂の眼が捉えた、巨人の頭頂に立つ人間の姿。それは体躯をすっぽりと覆い隠す漆黒の法衣を着た、一人の尼僧だった。丁寧に剃髪された頭部と、古ぼけた数珠を親指に掛けて背筋を伸ばし合掌するその姿からは、尋常ならざる威厳と威圧を感じる。それは恐らく、こちらを捉える二つの眼が、獲物を見定めた狼のようにギラギラと輝いていたからだろう。
相手は次に目を瞑った。そして何か祈りを捧げるように。
「『厭離穢土』」
告げた。
瞬間。
晶穂は自身の肌が粟立つのを感じた。
無意識の命ずるままに右腕を止め、錫杖を両手で握る。直後だった。
無脚の巨人が消えた。ほんの瞬きの合間に。晶穂の眼前に残されたのは、地へ天へと無茶苦茶に荒ぶる、人間大の太さはあるだろう、巨人の無数の毛髪だけ。
「潰れろ、と申したな」
声がした。先ほどの皺がれた声だ。あの尼僧の声だ。
それは。
――あり得ねぇ。
晶穂の頭上から聞こえた。
「お前が潰れろ」
頭の上へ錫杖を掲げた。その行為にどれだけの意味があっただろう。
上空から現れた巨人が、その巨躯をもって晶穂に圧し掛かった。
破滅的な衝撃が小学校の校庭を無遠慮に打ち砕いた。





