ホロウ - 第45話
俯きかけていた視線を引き上げたのは、聞きなれた家族の声だった。
開け放たれた体育館の入り口。そこに至る数段の階段で、何故かスマホを片手にこちらを見ている人物。それは間違いなく。
「……兄貴?」
「卓明。……たっくんじゃん!!」
「兄貴!!」
卓明は駆け出そうとして、手を繋いでいる真由のことを思い出し、足を止めた。一方、兄・国明はどこか呑気な調子で――いつものことだが――こちらにスタスタ歩いてくる。「おいおいおい~!」などとよく分からないテンションで。
「どうしたよ無事だったかよー! 何だよ元気な感じだなぁもう良かった良かった! なんか右目の辺り真っ黒になってるけど!」
「兄貴は……大丈夫か? 怪我は?」
国明は軽い調子で「俺は大丈夫、逃げ足だけはすげえから!」などと言ってケラケラ笑っている。その普段通りの明るさに、何だか卓明は力が抜けて、ゆっくりと地面に座り込んでしまった。真由は立ったまま、こちらと兄とで視線を行き来させている。
「ああ……真由ちゃん、これ、俺の兄貴。国明っていうんだ」
「『これ』とは何だ『これ』とは、親愛なる我が弟め。……たっくん、この子は?」
「濱野真由ちゃんっていうんだ。その……ここに来るまでになんやかんやあってさ。一緒に行動してる」
そうなのか、と国明は言い、にこやかに「こんにちは」と挨拶をする。が、一方の真由は卓明の背中に隠れたので、卓明は小さく笑ってしまった。
「恥ずかしいみたいだ。いや、胡散臭いと思われたのかも」
「何ィ~こんなに好青年だってのに!? たっくん、ちょっといい感じに俺を売り込んでおくれよ」
「兄貴」
「ん?」
「朋美叔母さんがおかしくなってた」
告げると、国明の笑顔は固まった。卓明は脳裏に思い浮かべる。磐鷲と共に暖を取った家の壁を破壊し、人間離れした動きで磐鷲に跳びかかっていた叔母の姿を。
「婆ちゃんはここに居るのか? 栄二叔父さんは? 朋美叔母さんに何が起きたんだ? この辺りがおかしくなった時、兄貴は家に居たんだろ? だったら――」
「待て待て待て、ちょっと落ち着け卓明。そんなに一度に聞いても答えられないだろ、俺の口は一つなんだぜ? 妖怪じゃあないんだから」
それに、と言って国明はすぐ正面に腰を下ろした。結果、兄弟二人で地べたに座り込むような形になる。
「こんな状況なんだ。話なら少しずつ、落ち着いていこう。でないと受け止めきれんぜ、色々とさ」
「……それは」
そうかもしれない、と卓明は思った。実際問題、明るい話題が期待できるような状況ではないのだから。
「あ、でも一つ吉報があるぞ。よし、我について参れ、たっくんアンドまゆしぃ」
「まゆしぃ?」
勝手なあだ名をつけ、軽妙に笑いながら国明は立ち上がった。そして再びスマホを顔の前でビデオカメラのように構えながら、体育館の中へと歩いていく。卓明は少し慌てて、真由と共にその後を追った。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ兄貴。っていうかそのスマホは何? なに撮ってるんだこんな時に」
「おいおいたっくん、こんな時だからこそだろ。映像でも残しておかないと、後で何があったのか説明できねーぞこんなの」
「それは……」
そうかもしれない、と思う。事実、ここまでの道のりを磐鷲に伝えた際は、何と言えばいいか分からず何度も詰まった。磐鷲は――恐らく慣れているのだろう――根気よく聞いてくれたが、誰もがあんな形で話を聞いてくれるとは思わない方がいいだろうし、何より話の内容があまりに現実離れしている。
「ほい、到着! 声を掛けてやってくれ」
思ったよりもすぐに兄の足は止まった。実際、そこは体育館の入り口のすぐ傍だったのだ。校庭と同様、定間隔で敷かれたブルーシートやマットレスの上に寝かされている人々が居て、兄が指し示したのはそのうちの一人だった。
「……宇苑兄ィ?」
何度か右目をこすって、そう言えば視力を無くしていることを思い出して、目を閉じて仰向けに寝るその男へと卓明は近づいた。膝をついてじっと見つめた。
間違いない。
崩壊した高校で「先に行ってて」と自分たちを送り出したはずの、宇苑。その彼が、今、卓明らの目の前に居る。
「何で?」
「ちょっと前にな、栄二さんが連れてきたんだ。その時からずっと眠ってる。怪我してるみたいだけど、まぁ大丈夫っぽい。何と頑強な肉体であることか!」
「いや、えっと……え? 何で栄二叔父さんが宇苑兄ィを?」
「さぁ?」
「……栄二叔父さんは生きてるってことだよな? その栄二叔父さんはどこ行ったんだ?」
「さぁ?」
卓明は頭を抱えたくなった。話にならない。
「まぁ、その内また戻ってくるんじゃね? かなりピンピンしてたし」
「それは……良かったけど」
それは間違いない。二人の兄に叔父の生存が確認できた。磐鷲の急な方針転換には驚いたものだが、結果だけ見るとこれ以上ない選択だったと言える。
「一体何があったんだよ宇苑兄ィ……あんなに自信たっぷりだったじゃないかよ……」
呼びかけても、眼前の宇苑は何も言わない。いつもの柿色の半纏を来たまま、ぼさぼさの頭を枕も無いマットの上に置いたまま、呼吸で小さく胸を上下させているだけだ。
「たっくんたっくん」
――代わりに、とばかりに兄は卓明の肩に手を置いた。次いで、軽い調子で「水かお茶どっちがいい?」と聞いてくる。
「水かお茶?」
「うん。なんか緊急用? 災害用に置いてた物資があるらしくてさ、ここ。校舎の方で配ってるんだ。見ればお二人とも疲労困憊のご様子、兄としていいところ見せつけるためにちょっくらパシッてくるぞよ」
「え、ああ……うん、ありがとう。じゃあ」
卓明は隣の真由に尋ねた。どうやら彼女は水をご所望らしい。それを伝えると、国明は「じゃあちょっと待っててなー」などと軽い口調で言って、体育館を出て行った。
「……ヘンな人だろ? ちゃらんぽらんでアホっぽい感じで……でもあれでふざけてるわけじゃないんだ。周りを和ませようとしてる、っていうのかな……意識してやってるのかどうかは知らないけど」
じっと国明の後姿を目で追っていた真由に、そんなことを言ってみる。相変わらず真由は怪訝そうな表情だが、五年前程前にも似たような表情を見た覚えがある。父が亡くなって、卓明らの家に栄二・朋美夫妻がやってきた時だ。あの時の栄二は、それはもう奇怪なものに出会ったかのように、兄のちゃらんぽらんさを眺めていたものだ……。
……そんな古い記憶を掘り起こしていた時だった。
外で声がした。
「ん?」
勿論、声などどこでも飛び交っている。この体育館の中だって、応急処置を施している人々や痛みにうめいている人、寝息を立てて眠っている人など大勢がいるのだから、少し騒がしいくらいだ。だが、卓明の耳が捉えたのは、そういったものではなく。
小さく、鋭く、それでいて息を呑み込むような。
悲鳴。
……卓明は静かに立ち上がった。傍らの真由も。二人で、すぐ傍の体育館出入口へ歩く。
外を見た。
校庭に居た人々が、皆一様にその場に立ち尽くしていた。或いは座り込んだまま、仰向けのまま、ぽかんと口を開けて空を見上げている。卓明はその中に兄の姿も見た。スマホで空を撮影している。それを構える手で表情は見えない。だが、きっと他の人々と同じ反応だったのだろう。何故なら、彼らの視線の先を目で追った卓明もまた……同じように固まったのだから。
闇の中、彼らの遥か頭上に、巨大な『顔』が浮かんでいた。





