ホロウ - 第43話
雷瑚の呟き、紡がれた言葉の意味こそ分からない。だが単語は聞き取れた。
彼女はいま『杖』と言った。
つい十数分前に出会った時、彼女は古ぼけた錫杖を手にしていた。
それが、無い。
あれだけ大きなものなら見落としようが無いのに――何せ大人一人分くらいの長さはあったのだ――それなのに、今の雷瑚はあれを握っていない。では背中にニンジャのように背負っているのか……と思って見てみたが、やはりない。周囲にはガラスの破片のみ。あれば見落とす筈はない。
――置いてきたのかな。
「あー、境講の君。そろそろいいかね? 話を再開したい。ひとまず一階へ案内する。それと、まずは避難している皆を安心させたい。先に外からの救助がもうすぐやってくることを伝えても?」
「あ? ああ、そりゃご尤も。って言っても、あたしもあんまり時間があるわけじゃねえ。急ぎで頼むぜ。それからこの子も預かってもらう。一人くらい増えようが構わんだろ?」
勿論だ、と院長は言い、スタスタと白熱灯の照らす真っ白な廊下を歩き始めた。月も星も無く、闇の化け物が蔓延る外とは打って変わった、数時間前までどこにでもあった平和。それがこの病院には灯っているように思える。
ここに居れば、きっと自分は無事だろう。
「行こうぜ那奈。なに、安心しろ。もうすぐこの夜は終わる」
「あの」
「なんだ?」
「さっき持ってた杖って、どこかに置いてきたんですか?」
そう言うと、雷瑚は不思議そうに那奈を見返した。改めて光の下で見ると、雷瑚の青空のような透き通った青い瞳は、うんざりするほどに美しい。おまけにどこか刃に似た鋭さもある。何も悪くないはずなのに、那奈はどこか気圧されたように感じた。
「ヘンなこと気にする奴だな。ほら。杖ならここに在る」
そう言って彼女は右手を持ち上げてみた。那奈は声を漏らしそうになった――確かに握られている。その右手に、あの古ぼけた錫杖が。
絶対に先ほどは持っていなかった。命を懸けてもそう言える。だが実際に、こうして目の前に有る……。
「満足したか? ホラ行くぞ、オッサンに置いていかれちまう」
「どうしてもっと早く来てくれなかったんですか?」
予想外の言葉を口にしている。言い終わってから、那奈は自分で自分に驚いていた。
突然、自分の前に現れた彼女。瞬く間に自分を助けた彼女。人間離れした跳躍力で病院に突っ込んだ彼女。先ほどまで間違いなく存在しなかったハズの杖を一瞬の間に手にしていた彼女。それらは那奈にとってあまりにも異質だった。
……だから、だと思う。純粋な、純然な疑問なのだ。と、彼女は考えた。言い終わってから。
雷瑚は暫く、真正面から那奈を見つめ返していた。院長が後方から急かしてくるのも無視して。それからボリボリと頭を掻いて、天井を見上げて――それから。
「いまこの時間に、この場所に居る。それがあたしの限界だからだ」
雷瑚は真正面から那奈を見据え、告げた
曇りのない瞳だった。白熱灯の光をすら霞ませるような力強い、どこか白刃を想起させる輝き。それが、彼女の目に宿っている。
「ここで出逢ったよしみだ。那奈、人生の先輩としてのアドバイスを二つ。一つ目、あたしは別に特別な人間でもなんでもない。二つ目、特別な人間でないと何か出来ない、なんてことはない」
そう言うと、雷瑚は那奈の頭にポンと手を置いた。
先ほどまで錫杖を持っていた筈の手。いまそこに――また――杖は無かった。
「だから出来る限りのことをしようぜ。あたしも、お前もな」
「わたし? わたしが」
何をするんですか、と尋ねようとした時には、既に雷瑚は背を向けていた。両手を白衣のポケットに突っ込んで、真っ白な廊下を歩いていく。後姿だけ見ると、派手な髪色の女医に見えなくもない。
「出来る限りのことって、なに?」
呟いた言葉に、反応する者は居ない。
何故かそれが、ひどく不快だった。





