ホロウ - 第40話
●
凄まじい悪寒がした。立っていることも出来ない程の。続いて視界が歪み、全身が軋む音がした。
血の味が口の中に広がり、駆けていた磐鷲は抗うことも出来ずに大地に倒れ込んだ。古いアスファルトで強かに顔面を打ちつけ、鼻血を流しながらも、辿り着いた駐車場、松明が幾つも置かれた祭祀場と化したその場を何とか見据える。
鉄と汚物を綯い交ぜにしたような悪臭が充満していた。
二人――卓明と真由が屋台テーブルに数人がかりで押さえつけられている。その顔面へとそれぞれ鉈と思しきものを振り下ろそうとしている男が二人。その周囲には血の海が出来、遺体が転がっている。地獄を具現化したようなその場で、しかし、『異常』は彼らにも及んだらしい。
二人の男が鉈を手から取りこぼした。
卓明らを掴んでいたもの達が次々に頭を大きく揺らして地面に倒れ込んでいく。何か雄叫びのような声がして、卓明が隣の屋台テーブルへ飛びかかったのが見えた。その姿が、映像をコマ送りしているかのように幾重にも重なって見えた。
――何だコレは。
臓腑が捻じれるような鈍い痛みに歯を食い縛る磐鷲は、次に鼓膜が焼け飛ぶような強大な音を聞いた。否、それは最早、音と呼ぶには余りにも強大な振動だった。食い縛った歯も強張った体躯も全て砕け散りそうな振動に視界がぐるぐると回る。数々の地獄を体験してきた磐鷲ですら舌を噛み切りたくなるような苦悶。その最中。
一瞬、ほんの一瞬。
遥か遠くの方で眩い――赤雷のそれに似た輝きが見えた気がした。
それは美しさとは正反対にある輝きだった。例えるなら憎悪。怨嗟。憤怒。胸を刺し貫き眼球を焼き滅ぼすような禍々しい輝き。その輝きを、サングラス越しに垣間見た瞬間。
すべての症状は掻き消えた。
――今のは――。
磐鷲は思い切り大地に頭を打ちつけ、考えようとする自らの頭脳を制止した。サングラスがヘンな曲がり方をした気がするが今はそんなことに気を取られている場合ではない。
今すべきことは動くことだ。
倒れ込んだまま、磐鷲はサバイバルライフルを前方へ数発撃ち込む。瞬時に生み出した毛髪の束で自分を前方へ引き寄せ、転がったままの遺体の上を通り過ぎ、歯を食い縛って片方の屋台へ突っ込む。そして派手な体当たりで崩れていく屋台テーブルを横目に、真由の体躯を覆うように伏している卓明の腹回りに腕を回し、そのまま全力で駐車場を駆けた。
「卓明君! そのまま真由ちゃんを離すな!」
「碓井さん!? いつの間に――」
「口を閉じろ舌を噛むぞ。歯を食い縛れ!」
片手でサバイバルライフルを広場の奥へと撃ち込む。銃弾は闇の中で朧気に見えた二階建て住宅の壁面へと無事に辿り着き、そこから生み出した毛髪に引っ張らせて、磐鷲は猛然と駐車場の宙を飛んだ。
その中で。
「門……門……門……門……」
彼は見た。
「門……門……門……門……」
――ナヲ子さん。
彼女は櫓に座っていた。骨組みに赤と白の縦縞シートが掛けられ、簡単な手すりで四方を囲まれた地上10メートルほどの高さの舞台。その上に一人、正座で、胸の前で合掌しながら、何やらブツブツと呟いている。緋袴に千早というスタンダードな巫女装束だ。一方、真っ白の長い髪は束ねられることなく腰まで伸び、深く刻まれた皺が頬にも両手にもくっきりと浮き出ていて、表情までは見えないがかつての柔和な彼女の面影とはひどく遠かった。それでも尚、磐鷲がその女性を『織田ナヲ子』と認識できたのは――その全身から立ち上る妖気じみた殺気が、彼女と手合わせをした古い記憶を呼び起こさせた為だ。
卓明によれば、彼女は認知症となり、満足に除霊が出来る状態ではないとのことだった。だとすれば。
――いや、だからこそか。
思索の最中、微かに見えていた住宅の屋根に辿り着いた。抱えていた卓明らを下ろし、暫し北の空を見つめ――磐鷲は二人に向き直った。そこで。
愕然とした。
「す……スパイダーマンみたいですね、碓井さん」
下らない感想を述べる卓明の体躯、その至るところが炭を塗りたくったかのように変色していた。貸したばかりのシャツやスラックスは擦り切れたのかそこかしこが破れていて、その破れた内側から見える肩や腹部、腕、両膝などが悉く黒変している。顔面も似たようなもので、豹の斑点のように、或いは粗雑に墨を散らしたように黒は彼を侵食していた。
腐り落ちた果実のようにさえ見える。
こちらの視線に気づいて怪訝な表情をした卓明だったが、彼もまた、その視線の意味するところを自らの体躯を眺めることで理解したらしい。「うわぁ!」と蛇を踏んづけたかのような声を上げ、両手を掲げて自らの体を見回している。ふと気づいて真由の体を見たが、彼女の方は無事なようだった。相変わらず右の鎖骨まで真っ黒だが、それ以外は住宅でカップ麺を食べていた時と変わらない。
「落ち着いて質問に答えてくれ、卓明君。……あの広場まで随分なスピードで到達したようだが、誰かに運ばれたか? それと痛みは?」
「は、はい。えっと、運ばれたっていうか多分ブン投げられて……真由ちゃんは何とか庇ったんですけど地面をゴロゴロ転が――もしかしてアレのせいで?」
「分からん。だが可能性はある。繰り返して聞くが痛みはあるか? それと」
目は見えるか、と磐鷲は尋ねた。
元々黒変が進んでいた彼の右半面、特に眼球付近もまた黒に染まっていたからだ。
「痛みはないです。……でも、えっと。うん」
卓明は半笑いで言った。
「多分見えてない……右目ですよね? ヘンな感じがする……見えないです。右目……何だこれ……」
どこか呑気な回答だが、恐らくはショックの表れだろう。時間を経るとそれは焦燥や不安、そして「何故自分が」というやり場のない怒りに変じていく可能性が高い。故に。
「分かった。痛みが無いならすぐに動くことにしよう。ここで落ち着いていられるわけでもないからな。
いいか二人とも、俺たちはこれから飾荷ヶ浜小学校へと向かう。卓明君、再び真由ちゃんを抱えてくれ。君は俺が抱える」
「はぁ……えっ、小学校? さっきは病院って」
磐鷲は素早くサバイバルライフルを構え、卓明の後方へ向けて撃ち込んだ。壁面を登り、屋根の上に跳びあがって来ていた白目の男の額に弾丸が命中し、相手は音を立てて大地へ落ちていく。
「喋っている暇は無い。あの駐車場に居た奴らの身体能力はそこらのアスリートより高い」
「あの、でも病院に行くってさっき」
「予定変更だ。北に行くのはまずい。だから南の、比較的無事そうな場所へ行く」
正確に言えば、と磐鷲は胸中で呟く。思い起こすのはつい先ほど倒れた時に見た紅い空。北の空に一瞬浮かび、消えていったあの光。
あんな禍々しいものには近づくべきではない。こんな状態であれば尚更だ。
「悪い選択ではないはずだ。小学校は……向こうか? では先ほどと同様、スパイダーマンの真似をしていくから腹を括ってくれ。舌を噛――」
――その時だった。
磐鷲は声を止めた。すぐにでも屋根の上から立ち退くべきであるというのに、体が動かなかった。動けなかった、と言い換えるべきかもしれない。というのも、彼は見てしまったのだ。
いや、目に入った、といった方が正しいのかも知れない。
「……卓明君。確かこの地方には妙な言い伝えがあったな」
本来、それは意識の介在する領域の問題では無かった筈だ。何せ、彼が目を向けたのは暗い海――夜よりも濃い闇を湛える、至る所が崩壊し、ゴースト・タウンと化したかのような街の更に向こうだ。十数km先の海に漂う物体など、幾ら視力が良かろうと本来見える筈がない。
「妙な言い伝え……あっ、えっと、はい。あの、それで言うと今、碓井さんはガン見されてますけど、止めた方がいいかなって」
おずおずと卓明が言う。だが、仕方あるまい。
恐らく――磐鷲はそう考えた。これは、そういうものなのだ。ある種の強制力があるタブー。意識していようといまいと、見える者には見える。そして見えない者には徹頭徹尾見えない。恐らく生涯一度も。そういう類のものであろうと磐鷲は感じた。理屈ではない。経験と、そして直感が告げていた。
そう、彼は見たのだ。異様な程にはっきりと、波間に浮かぶそれを。見える筈の無い距離を超えて、まるで運命がそれを彼に差し出したように。
頭は驚くほどに落ち着いていた。それでも全身が粟立った。確か――もう十何年も前、織田ナヲ子から聞いたことがある言い伝え。
波に運ばれてくるのだという。
この地方では、それを見ると気が狂うという。だから言い伝えが残っている。
「『夜は海を見るな』、か」
間違いなかった。彼は墨色の波間にそれを――人間の頭を見た。真っ青で血の気が無く、目は閉じて唇の青い人間の頭。
碓井磐鷲――他の誰でもない、彼自身の頭を、彼は墨色の波間に見た。
「飾荷ヶ浜……しょくにがはま、か。……全く、次から次へと」
独り呟いた彼は、ようやく動いた右手で自身のサングラスのフレームを持ち上げ、深く掛け直した。





