ホロウ - 第39話
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「卓明君、そこから離れろ!」
強く告げられた磐鷲の指示に、卓明は応えることができなかった。何故なら――その意味を理解するよりも前に、彼の体躯は宙に持ち上げられていたから。
異常な力だった。
抵抗する間もなく、彼の視界は目まぐるしく動いた。
家の中から、外の坂道へ。次いで視界は天へ向けられ、どうやら自分が持ち上げられたのだと考えた瞬間、彼の体躯は全身に凄まじい風圧を感じた。臓腑が浮き上がるような感覚とぐるぐると回る視界に悲鳴を上げながら、一方で彼は目を閉じなかった。理由は……自分でも驚くほどに鮮明だった。
――真由ちゃん!
手放しかけた少女の体躯を必死で抱きかかえた。その頭部を自らの胸に抱き、やがて骨が砕けそうな衝撃が背中にやってきても、彼はその腕を解かなかった。ささくれだったアスファルトの坂道を擦り傷だらけになりながら転がっていく。
永遠に続くかと思われたその回転は、やがて何か硬いものに卓明の背中がぶつかることで急停止した。せり上がってくる胃液を歯を食い縛って堪え、少女に声を掛け――ようとした瞬間、その体躯は再びぐいと持ち上げられる。無造作に首を掴まれ、痛みに声が漏れる。
ブン、という風切り音と共に、彼の体躯は再び宙を飛んだ。舞った、ではない。飛んだのだ。
運ばれている。
再びの急激な風圧の中で、それでも目を開いていた彼は、何とか状況を把握した。家の外から誰かに掴まれて投げられた。そして別の者のところに辿り着いた自分たちは、バケツリレーのように再び放り投げられている。どこへ? 分からない。どうしてあの家に朋美叔母さんが? 分からない。何故こんな目に遭っている? 分からない。分からない分からない分からない!
再び全身が砕けかねないような衝撃が走った。地面を転がっていく。土が飛び散り、石礫が視界に混ざる。
転がっていた体は、今度はゆっくりと止まった。土の地面の上だ。思わず息を吐き出して、それから強く吸うと、体中が鋭く痛んだ。恐らく擦過傷だらけだろう。
「ま……真由ちゃん、大丈夫……?」
気力を振り絞って吐き出すと、霞む視界の中でなんとなく少女が頷いているように見えた。安堵したのも束の間、妙に周囲が明るいことに卓明は気づく。
火の匂いがした。正確に言えば焦げた匂いだ。木が燃える匂いだ。幾つもの明かりが見え、視界が明瞭になってくるにつれ、それらが定間隔で置かれた松明であることに思い至る。
――そう言やぁ、今日は祭りの日だったっけ。
うっすらとそんなことを思い出す。本当なら自分も学校が終わったら準備に参加する予定だったのだ。家の前の坂道を少し下って、更に小さなコンクリートの階段を数段下って、簡単な遊具の置かれているくたびれた公園を突っ切って、道路を挟んだ向こう側。そこは二十数台分が収まる程度の駐車場で、例年この日は道路などに車を除けて貰い、中央に櫓を、その周囲にいくつかの屋台を設営する。櫓と言っても住宅の二階分程度の足組の上に丈夫な板を渡して、シートを掛けて、その上に太鼓を置くだけだ。だが、櫓を中心として四方八方に糸を渡し、提灯を吊り下げて、日常の空間を非日常の祭りの場所へ塗り替えていく作業は嫌いではなかった。
嫌いでは――。
「うわっ!」
突然に乱雑に無作法に、思索へ逃避しかけた卓明の体躯を何者かが持ち上げた。その『何者か』の顔立ちに卓明はぎょっとした。白目にくっきりと幾筋もの血管が浮かび上がり、口元はだらしなく開いていて、何より顔中が血みどろだ。思わず悲鳴を上げかけたが、ふと彼はその顔立ちに見覚えがあることに気づいた。そうだ、間違いない。
祖母の……痴呆の進んだナヲ子のケアマネージャーだ。祖母の症状や日常生活について、卓明も何度も言葉を交わしたことがある。異様で醜悪な変貌を遂げた相手は、しかし卓明のことにはまるで気付かない様子で、米俵を担ぐかのように真由を抱いたままの卓明を肩に載せ、ずんずんと歩いていく。
天を仰ぎ見るような姿勢になりながら、卓明は見た。ここが祭りの予定されていた駐車場であること。松明が定間隔に置かれていること。中央にはもう櫓が設営されていて誰かが座っていること。そして櫓の前に――。
「うわああああああ!!!」
櫓の前には血の海が広がっていた。屋根を取り外した屋台が二つ並べて置かれていて、その周囲に顔面の潰れた複数の人間が無造作に転がされている。数を数えることは出来なかったが、恐らく十数人は居た筈だ。真由ごと自分を運ぶケアマネ担当はずんずんと屍の中央、櫓の前、血塗れの屋台テーブルへと歩いていく。二つの屋台テーブルの傍には鉈を持った大人たちが数名。何をされるのか、嫌でも察してしまう。
バタバタと両足をばたつかせて、何とか逃げようとする。が、抵抗虚しく、彼の体躯は勢いよく屋台テーブルに叩きつけられた。苦悶の声が漏れ、腕の力が無意識のうちに緩んだ。それを見て取ってか、無言でケアマネ担当は卓明から真由を引き剥がした。どさりという音がして、見るとすぐ隣の屋台テーブルに真由が載せられている。二人の男が彼女の左右の腕をそれぞれ掴んだところで、卓明もまた両腕を男性二名に掴まれ、仰向けにさせられた。
白目を剥いた男が頭のすぐ上に居た。彼は大きく鉈を振り上げた。真っ黒な天を裂くように振り上げられたそれは、しかし刃こぼれだらけで血に塗れていた。
『――例え特別な力が無くったって――』
卓明は声の限り叫んだ。悲鳴ではない。両腕に万力を込めたのだ。押さえつけられていた片腕が僅かに動き、彼はどうにか体を捻じろうとした。頭に浮かぶことは一つ。唯一つ。
――俺があの子を守らないと!!
空を斬る音がした。ほぼ同時だった。
『それ』が起こったのは。





