ホロウ - 第33話
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――いま目の前で起きたことを、彼女は生涯忘れることはないだろうと思った。
「あっ、あっ、あっ……」
傍らに尻餅をついている男は、小刻みに体を震わせながら、眼前の光景に目を白黒させている。無理もない、とは思う。
何せ――何の前触れもなく、一メートル程の距離を隔てて立っていた幼馴染と、彼の連れていた女の子が、突然に落ちていったのだから。
「あっ、なっ、な……何なんだよコレぇ……!」
彼女――渚那奈に、男の疑問に応える知識は無い。仮に知識が有ろうと応える義理は無い。故に、いずれにせよ彼女は沈黙していただろう。
間違いないことは一つ。
「ここで……ここで何が起きてんだよ……!」
男はそんなことを呟きながら地面を這い、少しだけ進んだ。その前方――彼と彼女の眼前に確かに存在していた筈の大地が、ごっそりと、削り取られたかのように消え失せている。
地滑り、という言葉が頭をよぎった。つまり――丁度、自分たちのすぐ前辺りで大地が割れ、割れた先の大地が丸ごと、奈落の底へと落ちていったのだ。そう解釈するのが最も妥当なように感じた。
後方から、ガラガラと瓦礫が崩れる音がした。
視界の端で、男の自宅を構成していた数々の物質――木材やコンクリートブロックや鉄骨、瓦などなど――が、音を立てて奈落へ落ちていく。例えるなら、自分と男は崖っぷちにいた。突然、何の脈絡もなく『何者か』に削り取られた大地、その崖っぷち。正面には中空しかなく、虚空しかなく、月も星も無い空が真正面にまで夜の手を下ろしてきた。先ほどまで『存在した』筈の大地も――幼馴染の少年たちも、もう見えない。何もかもが見えない。
黒だ。
正面には黒だけがある。この崖から身を投じた途端、自分たちもその黒に呑み込まれ、見えない奈落へと落ちていくのだろう。これは絶対に間違いのない事実だ。いまこの地に何が起きていようと、この先どんな事態が更に引き起こされようと、絶対に間違いのないことだ。
故に。
「どう、どうなって……どうなってんだよォ!」
彼女は思い切り、眼前の男の尻を蹴った。
えっ、と、男は――ああ名前も思い出せない、思い出す必要も無い――驚愕の声を漏らし、虚空へ身を乗り出した。そのまま為す術もなく落ちていくと思われた。
しかし、男には意外な長所があったらしい。予想外のしぶとさだ。
男は咄嗟に崖の端に手を伸ばした。その手はギリギリのところで男を奈落への急降下から守った。どうやら崖はほぼ垂直になっているらしく、男は両手だけで大地の縁にしがみついている。
「な……那奈、てめぇ!! なに、何しやが――」
那奈は冷静に一歩進み、大地の縁を掴む男の両手を、その指を踏みつけた。
男が悲鳴を上げる。
「うるさ……」
「那奈、やめろ! おまっ、何で!?」
「何でって、何が?」
那奈は心の底からの疑問を素直に口にした。強い風が吹いていく。虚空と化した正面、口を開けてこちらを見上げている奈落。どこもかしこも真っ暗で真っ黒だ。
「何で俺を突き落とそうとするんだって! 手ぇ退けろクソ!! 那奈ァ!!」
「決まってるじゃん。あなたじゃ私を守れないでしょ?」
「あぁ!?」
「あなたはお金を持ってた。だから他の人よりマシだと思ってた。私を守ってくれるかもって。でもさぁ、もうこの状況じゃお金なんて何の役にも立ちそうにないじゃん。だからあなたと一緒に居る意味はもうない」
足に、体重を預けていく。男が悲鳴を上げた。つい先ほど、幼馴染が来るまで「静かにしてろ、化け物に見つかる」なんて言っていたのに、今ではこの大声だ。那奈は呆れてしまっていた。
やはり、この男に自分を守る力はない。胆力も度量も気力も無い。
「おまっ、おまっ、俺、俺が落ちたら、お前も化け物に狙われるんだぞ分かってんのか分かったらサッサと足退けろクソ女ァ!!」
「えぇ……健忘症なの? あなた、私に例の御守の二つ目をくれたじゃない。父親の死体から剥ぎ取った御守」
ほらここにある、と那奈は首から提げていた御守を取り出してみせた。
足元の男の血走った眼が、異様な輝きを放っている。
「あ、言ってなかった。この御守、ありがとうございます。あなたのお父さんが家の下敷きになって死んでくれたお陰で、あなたが居なくても化け物に狙われることはなさそう。でもそうなると私はあなたに守られてることになる? もしくはあなたのお父さんに? いや、そうじゃないよね。化け物を遠ざけてくれてるのはこの御守であって、あなたもあなたのお父さんも何の関係もない。私を守ってくれるのは」
那奈は目を閉じた。瞼の裏に思い浮かべた。この先、一生、何があっても忘れないであろう光景。自分を探して暗闇を歩み、突然の大地の崩壊に驚愕しながらも自分に手を伸ばし、自分を守ろうとしてくれた幼馴染の姿。
白馬の王子様よりも甲冑の騎士よりも伝説の英雄よりも猛々しい、彼女を守ってくれるであろう幼馴染――織田卓明。
「不思議だなぁ。探しものって、ホントにすぐ近くにあるものなんだね」
彼女は自らを恥じていた。何の力も無い、どこにでもいる子供。卓明のことはこれまで、そうとしか捉えていなかった。
だが違ったのだ。思えば彼は子供の頃から何かと自分を気にかけてくれていた。母親を亡くして泣いている自分に寄り添ってくれたこともあった。何より、闇に蝕まれながら自分の無事を心から喜んでくれた。
確信。そう呼べるものを彼女は得た。織田卓明は自分を守ってくれる人だ。自分が探し求めていた人だ。だからきっと、また彼は自分を探して奈落の底から這い上がって来る。自分を守るために来てくれる。
「小学校って言ってたっけ。そこに行けば多分、卓明と合流できるよね」
呟いて、彼女は一際強く足に力を入れた。悲鳴が聞こえた。その悲鳴はやがて遠ざかり――風の音に混じって、消えた。
足元を見る。
男の姿は消えていた。
「よっわ」
彼女は鼻で笑って、踵を返して歩き始めた。





