ホロウ - 第30話
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不意に地面が震えた。突き飛ばされたような衝撃で足元がぐらついて、真由は手を繋いだまま、卓明と共に道に倒れ込んだ。
「っ……ごめん真由ちゃん、大丈夫? 怪我は?」
上体を起こし、卓明が尋ねてくる。真由は首を振った。怪我が無いわけではないが、走れない程ではない。だから彼女はううん、と首を横に振ってみせた。
声が出せれば、と改めて思う。
卓明と共に立ち上がりながら、背後を振り向いた。走っていた道路には亀裂が走っており、高校の周囲にあった建築物――二階建ての家屋や屋根付き駐車場、小さな工場など――も軒並みぺしゃんこに崩れ、瓦礫やひんまがった鉄の棒たちが一方通行の道を更に狭くしている。
――こんな状況で小学校になんて行っても、誰も居ないんじゃないのかな。
喉が渇いていた。埃が空気と共に口の中に入ってくるようで、息苦しい。
「真由ちゃん、走れる? 大丈夫、宇苑兄ィなら絶対追いついてくるから。俺たちは俺たちの最善を尽くすんだ」
それしかない、と彼は呟くように言う。その頬についた黒い擦り傷が、真由の胸の中をざわめかせた。
――小学校に着いても、このままじゃ私たち――。
「行こう。いつまたさっきみたいに揺れるか分からないから、ちょっと速度を落とし」
「こっちにこい」
男の声がした。卓明のものではない。
真由は周囲を見回した。
誰も居ない。崩れた建物、遠くの空を焦がし続ける炎。ガスと鉄の匂い。人影は無い。自分たち以外、人っ子一人居ない。人はおろか、犬猫の姿すら全く見えない。
――どうして私たち以外、誰も居ないんだろう。
声の主を探しながら、今更ながら真由は疑問に思った。確かに大きな地震だった。カイ・ウカイや黒い人影という危険な存在も居る。それにしても、こんなに誰も居ないのはおかしくないか? 自分たちの他に、懐中電灯だったりスマホの照明機能だったりでカイ・ウカイから逃れられた人は居ないのだろうか。押し入れの中で無数の身の毛もよだつ悲鳴を聞いたけれど、まさか自分たち以外の人間は全員――。
「……男の人がいる」
――卓明がポツリと言った。驚き、彼の視線の先へ自分も目を向ける。
……誰も居ない。崩れたコンクリートと鉄骨が折り重なっているだけだ。
「スーツ姿の……あの人、もしかして」
「こっちにこい。あのこはこっちだ」
また声がした。先ほどの男の声だ。それは確かに卓明の目線の先から聞こえる。だが、間違いない。
誰も居ない。
背中の筋肉が急に強張った。風邪のひき始めの時よりも遥かに不快な冷たい感触が走り抜け、彼女は思わず身震いする。
なにかが、いる。
「こっちにこい。あのこはこっちだ」
声は繰り返す。
卓明が真由の名を呼んだ。
「もしかして、見えない?」
声の方を向いたままの卓明に異様なものを感じて、真由は暫しどう伝えるべきか迷った。だが、彼がちらりと横目でこちらを見て――その真剣な眼差しを見て――真由は自然と頷いていた。
「そっか。……落ち着いて聞いて欲しいんだけど、あっちの方にね。スーツを来た男の人が立ってるんだ。真由ちゃんに見えてないってことは、生きてるヒトじゃないんだと思う。その人が、俺に手招きしてる」
――幽霊、ってこと?
「悪意があるようには見えない。なにか、伝えたいことがある……ように見える」
「こっちにこい。あのこはこっちだ」
「ほら、えっと……俺、神社の息子だって言っただろ? だから……まぁその、それが理由ってわけでも無いんだけどとにかく……見えるんだ。普通の人には見えないものがさ」
卓明が一歩、足を踏み出した。声の聞こえる方へ。
「宇苑兄ィには小学校の場所を伝えてる。合流は出来る筈だ。だから……」
「そうだ。おれはてつだってほしいだけだ。おれはてつだうだけだ」
真由は強く卓明の手を握り締めた。強く足を踏ん張って、声の元へ進もうとする卓明を引っ張った。ようやく理解できた。自分にずっと聞こえていた声――あれらは死者の声だったのだ。卓明が――もちろん彼の言葉が本当であれば、だが――霊を見ることができるように、自分は霊の声が聞こえるようになっている。いつ、何故そんな力が備わったのかは見当もつかない。少なくともこんな事態に陥るまで、今日という日まで、真由にそんな能力は無かった。
だからこそ。
「……やっぱり反対するよね」
自虐的に言った彼に、真由は何度も頷く。当然だと言ってやりたかった。死者に取り憑かれた挙句に死ぬ――それは真由にとってドラマや小説での話だったが――いずれにせよそんな話は世の中に溢れかえっているし、何よりこの異常事態において、正体不明の不可思議な存在に誘われてどこかに出向くなど正気の沙汰ではない。自殺行為だ。
「でもその……なんか、悪霊とかじゃなくて。さっきも言ったけど、俺に伝えたいことがあって出てきたような……そんな感じなんだよ」
「あのこはこっちだ。ぼうずのさがしびとはこっちなんだよ」
――探し人?
男の声に、ふと思い出す。ここに来る前、出会ったばかりの時に宇苑が非難するように告げた言葉。
『だけどキミの奥さん救助にまでその子を付き合わせるつもり?』
「すごく大事なことを俺に伝えようとしてくれてる……気がする。だから」
行かせてくれ、と卓明がこちらを見つめた。真由は。
……暫し考えた後、彼を引っ張る力を緩めた。
「ありがとう。大丈夫、危険そうならすぐに真由ちゃんを抱えて逃げるよ。多分、それくらいは分かるし、出来ると思う」
仕方ない、と真由は自分に言いきかせた。卓明が歩き出す。彼と右手を繋いだまま真由も歩みを始める。ついさっき会ったばかりではあるが、卓明は最早、自分を一人で残していくつもりは更々無いようだ。自分が逆の立場なら――同じことを出来るかどうか分からない。少なくとも卓明にとって自分は重荷であり、負担であり、足枷でしかない。逃げるにしても逐一自分を気にしなければならないのだから、見捨てた方がよほど彼の生存率は高まるだろう。だが彼はそれをしない。頑なに。
真由にとって、卓明は自分を暗い押し入れから脱出させてくれた恩人だ。一方、現状で自分が彼に返せるものなど無いに等しい。だから、せめて彼が望むことには我儘言わずに協力すべきだと思った。例え命の危険があろうと。
『真由ちゃん、卓明を頼む』
――あの宇苑って人、何のつもりで私にあんなこと言ったんだろう。





