ホロウ - 第26話
抱き寄せられたまま、真由は思わず目を開いた。視界は闇に覆われている。微かに卓明の胸ポケットが見える。
「にげろ。にげるんだ。そこに居てはいけない」
声がした。一度目は子供のような、二度目は老人のような。でも誰が? 先ほど周囲を見渡した時、崩壊した建物の跡ばかりで、他に人の姿なんて――。
「おにいさんといっしょににげて」
女性の声だ。胡乱で朧気で抑揚のない、それでいてどこか訴えかけるような声。真由は一瞬迷った。一瞬――そう、一瞬だ。
一瞬でその迷いを切り捨て、彼女は体を捻じって卓明の腕を無理やり掴んだ。そして思い切り駆けだそうとする。
卓明が驚きの声を上げる。姿勢が崩れて二人で地面に倒れ込む。手のひらが痛んだ。気にせずに顔を上げた。
漆黒の人影が卓明のすぐ後ろに迫っていた。
「にげて」
声が聞こえる。真由の視線の先を追った卓明が驚愕しながら真由の手を掴み返す。二人揃って跳ぶようにその場から退いた直後、黒い影は元居た場所に覆い被さった。
「な、何だこいつ!?」
「たっくん」
じっとしてて、と声がした。また宇苑の声だ。彼は目にも留まらぬ勢いで真由らの前に立つと、倒れ込んでいる漆黒の人影の顔面を、手にした棒状の物体で、一切の躊躇なく殴り飛ばした。その時。
殴り飛ばされ、陶器のように宙で瓦解していくその人影に、真由は見知った人物の面影を見た。
――おかあさん?
「初めて見るタイプだな。ほら見なよたっくん。こいつ、中が空っぽだ」
「空っぽ? ってか宇苑兄ィ、近くに来てたカイ・ウカイは――」
「もう全部倒した。また暫くは大丈夫なんじゃない?」
軽い調子で言う宇苑は、片手に鞘に収まったままの古い太刀を握っている。何か……何か特別なものなんだろう、と真由は思った。理屈ではない。そう感じたのだ。
だけど、と思う。それはそれとして、さっき聞こえた声は何? それに崩れていった真っ黒な空洞の人影。あの背格好は――。
「――真由ちゃん、ありがとう気づいてくれて」
ふと、卓明が真由の目を真っすぐに見て言った。必死で考えていた真由の目は、卓明へと向けられる。
「俺たちもこの人影タイプのヤツは初めて見たよ。捕まってたらどうなってたか分からない。碌なことにならないことは大体予想が着くけどね。
……でもどうやって気付いたの? 何も見えないようにしてたんだけど」
「たっくん、話なら歩きながらにしよう」
「え? ああ、うん。じゃあ……」
促された卓明が立ち上がり、こちらへと手を差し出してくる。もはやその仕草を自然と受け入れて手を握り返す真由だが、最中、何やら険しい顔で宇苑がこちらを見つめているのに気付いた。
いや。正確には。見つめているのは真由ではなく。
「さ、行こう。……クラスの皆、無事かなぁ……」
――私の腕に何かついてる?
歩き出す。その中で、彼女は自身の右腕を見る。宇苑の視線の先。つい先程、卓明を引き倒した時に出来た擦り傷がある。そして擦り傷の端。泥に紛れて。
煤のように真っ黒な『何か』が付着していた。





