ホロウ - 第25話
「宇苑兄ィ。一応言っておくけど、この子も連れていくから。いいよね?」
念のため、と冷蔵庫に入っていたお茶のペットボトルと着替えを数点、真由と共にランドセルに詰め込みながら、釘を刺すように卓明が言っている。もじゃもじゃ頭の宇苑という男はどこか面倒くさそうに「はいはい」と返している。
「この先も何も起きないならね。ただ」
「その先は言わないでくれ。……言ったら俺、怒るよ」
もじゃもじゃ頭の男がため息をついた。遣り取りの意味は分からないが、何となく宇苑という男が自分を歓迎していないことは分かる。
俯きかけたところに、卓明の手が差し出された。行こう、という穏やかな声と共に。
真由は卓明と手を繋ぎながら家の外に出た。荷物の入ったランドセルは卓明がショルダーバッグのように肩に掛けている。外も暗かったけれど、少し離れた空に炎が上がっているのが見えたため、相対的に家の中よりは明るい。
だけど、どうやら火事が起きているというのに、どうして消防車のサイレンが聞こえないのだろう。
――本当に、何が起きたんだろう。
真由は自身の家、六戸からなる木造アパートとその周囲の光景に眩暈がした。アパートは半分以上崩壊して瓦礫と化しており、一階の真由の家だけが奇跡的に直方体のスペースを保てているようだ。ドアを一歩出た先ではガラスや家壁の破片がそこかしこにブチ撒けられ、周囲の住宅も塀も半分以上崩れ落ちている。相対的に空が異様に広く感じたが、見上げた先に星は無い。闇だ。闇だけが懸かっている。
どことなく、空気にガスの匂いが混ざっている。
妙に埃っぽくて、息を吸い込めば吸い込むほど、喉に何かが絡みついてくるような感覚があった。
先ほど卓明は『近くの他の家は大体崩れちゃってて』と言っていたが、成程、その言葉に嘘偽りは一切無い。自分の家だけギリギリのところで崩壊を免れた、その事実が不思議ですらあった。
「で、たっくん。百歩譲ってその子も連れて行くのは分かった。だけどキミの奥さん救助にまでその子を付き合わせるつもり?」
――奥さん?
自分でも怪訝な顔をしていたと思う。卓明は見たところ高校生であり、どう見ても結婚しているようには見えない。
「奥さん? あーああうん、えっと……」
「……やっぱり奥さんじゃないんじゃないの?」
「何を今更。何度でも言うけど那奈は俺の事実上の妻です」
宇苑は訝しげな視線を隠そうともしていないようだった。が、その視線を真っ向から跳ね除け卓明は言う。
「妻です。……まぁそれは置いといて」
「ホントかなぁ……ホントに……? 高校生が……? 高校生でしょ……?」
「いま考えたけど、確かに宇苑兄ィの言う通りだと思う。だから、飾高に行こう。地理的にはこの近く――もうちょっと北東に行けばあるはずだ」
卓明が言うに、飾高――飾荷ヶ浜高校のことだ――のような大きな場所なら、避難している人も少なからずいるのではないか、ということだった。それは確かに、と真由も思う。この辺りの広域避難場所に指定されているのが、卓明のいう高校なのだ。
――もしかしてお母さんもそこに行ったのかな。
「そこで誰かしらと合流して、明かりが必要だってことも伝えて、真由ちゃんを預かってもらう。……真由ちゃん、悪いんだけど俺たち、どうしても行かなきゃいけないところがあってさ。でも君がそれに付き合う必要は無くて――」
「たっくん」
突然、宇苑が鋭い声で言った。それと同時だった筈だ。
真由の足を、氷が競り上がってくるような感触が襲った。
まずい、と卓明が言った。
「真由ちゃん、目を伏せ――」
懇願するような、縋るような卓明の声がした。だがそれよりも先に真由は見てしまった。視界の端、屋根にべしゃりと圧し潰されたかのように崩壊した住宅群の向こう。そこに立つ、全身が真っ黒な影。
見覚えがあった。だから直ぐに目を逸らした。
それがまずかったということを、彼女は自身の行動の直後に思い出した。
――あっ。
声は出なかった。だがそんなことはお構いなしに、真っ黒な球体は彼女の眼前へと滑り込んできた。眼前――鼻先数センチのところだ。模様は無く、ただただひたすらに塗り潰したように真っ黒で、そのくせ彼女の全身をすっぽり呑み込もうという程の大きさ。
同じだ。
押し入れの中で彼女を停止させたものと。彼女の声を奪ったものと。目の前のものはそれと同じだ。それに――ついさっきも――押し入れの中以外で――どこかで――。
――どこかでこの黒を見た気がする。
「はい動かないでね」
不意に風を斬る音がした。途端、完全の闇はあまりにも呆気なく霧のように消えた。
驚く間も無く、頭部をぐいと抱き寄せられた。
「大丈夫。目を閉じてて。あいつらは人間の視界に入り込もうとするんだ。だから、最初から見なければ大丈夫」
卓明だ。意識的にゆっくりと伝えているのだろう、口調は穏やかで、そこにもはや焦りは無い。
「大丈夫。宇苑兄ィが追い払ってくれる。じっとしてて」
傍で地を蹴る音がした。続いて無数の空を切る音。あの黒いヤツは、どうやら近くに沢山居るらしい。そして少なくとも、この状況に卓明らは……ある程度慣れている。
『アイツ、どうやら光に弱いみたいなんだ。携帯のライトとか、懐中電灯とか。ここまで来る途中でそれに気づいて』
今更ながら思い至る。彼らはここまでこうして、あの黒い影に対処してきたのだ。だから真由を見つけられた。だが――そんな術も知識も無い人は?
無人の、ゴースト・タウンのように崩壊した周囲の光景がフラッシュバックする。
「大丈夫。大丈夫だ。落ち着いて」
そっと、卓明が真由の後頭部を撫でてくれた。不快感は無い。この人は自分を守ろうとしている――そう全身で感じられたから。
「うごいて。ちかづいてきている」
――え?





