ホロウ - 第23話
●
往路の記憶は鮮明なのに、復路のそれは曖昧になる――誰しも一度は経験することだ。
その夜の冒険は正しくそれで、あまりに現実離れした出来事であった筈なのに、卓明は全くと言っていいほど帰り道のことを思い出せない。血塗れの国明と彼を担ぐ国明の友人三名、そして宇苑とで、ぬるぬるする洞窟を転ばないように進んだ……ような記憶は朧気にあるのだが、それだけだ。ヘンゼルとグレーテルが如き頼りない道標で、あの真っ黒で冷たい洞窟を迷いなく脱出出来たのは奇跡と言っても良い。
……いや。
それは言い過ぎかも、と卓明は思う。あの日の宇苑が太刀の封印を力任せに千切り捨てたのと同様に、人間には――子供だろうと大人だろうと関係なく――自分でも予想だにしないような力を吐き出せる時があるのではないか。そんな瞬間が自分に訪れるかどうかは分からないけれど――その瞬間が訪れることが果たして幸福なのか否かも判然としないけれども――少なくとも、自分はその実例を間違いなく二つの眼で捉えたのだ。
宇苑とはその年の冬に別れた。幸いにも国明は一命を取り止め――あの冒険の後、卓明らは大勢の大人に代わる代わる叱られたが――宇苑も怪我の治療と、卓明の身に起きた『異変』に対処する為、夜を織田家で過ごすことになった。夏が終わり、秋が来て、冬に至った。卓明は多くの時間を宇苑と過ごした。いや、主語を変えよう。宇苑は多くの時間を、卓明らと食事を共にし、夜を共にした。
「終わったら帰って来いよ」
祖母・ナヲ子による修行が一区切り付き、翌日に迎えが来るという日、国明は宇苑にそう言った。その日、国明と卓明、そして宇苑は珍しく朝から子供部屋で過ごしていて、国明は流行りの漫画なんかを宇苑に伝えていた。その最中で突然伝えられたのだから、宇苑も最初は驚いたような、怪訝なような、何とも言えない表情をしていたのを覚えている。
「用事が済んだら。いやまぁ、別に用事が済まなくてもさ! いつでも帰って来いって! こう……何つうかホラ、もう完全にそういう感じじゃん、俺た――」
「国明。俺は全部無くしたんだ。それはもう、どうなっても変わらない」
兄の言葉を遮って放たれた宇苑の声が、やけに小さかったことを覚えている。いつもより優しい声だったことも。
「……けど」
「けど?」
「けど……なんて言えばいいかな。うまい言い方が見つからないけど」
帰ってきたいって思う、と宇苑は言った。やらなきゃいけないことが何もかも全て終わったら、と。
「……終わったら」
一瞬。
一瞬だけ、その眼差しに、あの日の洞窟で見た月光の刃を卓明は見た。宇苑と別れて以降、卓明は何度もその意味を考えた。
結論が出たのは、数年後。あの冒険の夜の宇苑や国明らに、卓明の年齢が追いついた頃だ。
宇苑は。
自らの命と引き換えに、仇討ちを成し遂げるつもりなのかもしれない。
――そんなことになる前に。
卓明はもう一度、宇苑と話がしたかった。そんなことは辞めてくれ。無くなった家族の代わりにはなれないかもしれないけど、新しい居場所が出来た筈だ。だから、死ぬ覚悟なんて必要ない。また一緒に暮らそう。そう、伝えたかった。
卓明は思いもしなかった。
その居場所が、こんな風に壊れることになるなんて。





