ホロウ - 第22話
すべてがスローモーションで動いた。
嘘のような大量の鮮血が宙を舞っている。真っ赤なそれは月明りに照らされて異様な程に輝いている。べそをかいていた国明が目を丸くして自身から噴き出す血を眺めている。
卓明は。
「兄ちゃん!!」
叫んでいた。
「兄ちゃんを放せ!!」
無我夢中だった。
彼は手にしていた大型の懐中電灯を徳吉の後頭部向けて投げつけた。すべてが水の中に沈んだような鈍い鈍い洞窟の中で、その懐中電灯だけは光を辺りに撒き散らしながら宙を進み、鮮血をも照らして進んだ。結果。
懐中電灯は徳吉の頭頂部にガツンと音を立ててぶち当たった。
徳吉が卓明を振り向く。
両の眼も口元も血に塗れていた。
うっすらと開いた口からは薄汚い歯が覗いていた。
それすらも血に塗れていた。
血塗れの鬼が国明を放り出す。
直後。
ぶつん――と、何かが千切れる音が洞窟中に響き渡った。
同時だった。
血塗れの鬼の、卓明に向けたその顔面がぐにゃりと歪んだ。
「故」
小さく呟きながら放たれた宇苑の蹴撃で、徳吉の体は放り投げられた硬式ボールのような速度で吹き飛んでいく。やがて彼方の壁面から土埃と轟音が響き、冗談のような衝撃が大地を揺らした。
「所斬之刀名、謂天之尾羽張、亦名」
宇苑の左顔面と鼻っ柱は擦過傷で泥と血塗れになっていた。卓明が声を掛けようとした直前、その傍らへ何か重たいものが放り出される。
国明だった。
「謂伊都之尾羽張」
――その時。
彼方の土煙から一筋の影が躍り出たその時。
宇苑の呟く、呪文のような詩のような言葉に区切りがついたその時。
何故そんなことを思い出したのか、考えたのか――卓明の脳裏に、数週間前の祖母の言葉が過った。
『――太刀に掛けた封印も解けていないじゃない――』
宇苑が握る太刀。その柄、その鍔の先に。
刃は無かった。
「宇苑兄ちゃ――!」
「その呼び方は止めろ、って言ったろ」
どいつもこいつも――そう吐き出すように言いながら、宇苑は微かに笑っていた。左顔面の皮膚が破れ、血肉を外気に晒しながら――恐らくは激痛の最中にありながら。
大口を開けた徳吉に飛び掛かられながら。
刃の無い、柄だけの太刀を握り締めながら。
宇苑は右手を――その手に握り締めた太刀を、掲げるように振り上げた。
瞬間。
しゅう、という熱した鉄板に油をひいたような音が洞窟内に響いた。
卓明は見た。確かに見て、聞いた。自分でも不思議な程に、彼は眼前で起きた出来事、事実を明白に認識した。
「あ」
呟いた徳吉の、宇苑へと伸ばされていた両腕が蒸発していた。
「ああ」
よろよろと後退する徳吉。振り上げた太刀を静かに構え直す宇苑。何も無かった筈の刀身に、いま、洞窟中に振り撒かれていた月光が集約したかのような――清廉で高貴な輝きが集っている。
「……無くしたんだよ。家族も家も、俺は全部無くした」
「ああ」
「けど」
「あああ!」
「だからこそ」
止めてけれ、と徳吉は叫んだ。自らの消えた両腕を振り回し――不思議なことに、それらからは血の一滴も噴き出していない――怯えた表情で狂ったように叫んだ。止めてけれ、許してけれ、止めてけれ、許してけれ。
「許してけれ!」
徳吉が駆け出す。宇苑に背を向けて。
「止めてけれ!!」
「止まるかよ」
瞬きの隙間。発せられた両者の言葉が宙で衝突する、そのコンマ数秒の間だっただろう。
宇苑は光刃を振るいながら、逃げる徳吉の傍らをすり抜けた。
「止まらない。死ぬまで絶対に止まらない。……もう、二度と無くさない」
二度と――そう呟いて、宇苑は静かに立ち止まった。それから、ゆっくりと、太刀を古ぼけた鞘の中へと収めていく。
その刀身が鞘の内側に消えたのと――徳吉の体躯が袈裟懸けに斬り裂かれたのは、ほぼ同時だった。
「許し……あああ……」
消えていく。裂かれた徳吉の下半身が、上半身が、蒸発するように消えていく。その傍を無表情に駆けた宇苑は、卓明の傍ら――国明の首筋に、自身の着ていたシャツを押し当てる。それから、茫然としていたのだろう兄の友人たちへ、宇苑は鋭く指示を発した。お前らも止血を手伝え。急いでここから出るぞ。そんなことを宇苑は言っていたように思う。
卓明はというと、自らのすぐ傍で行われる応急処置……ではなく、消えていく徳吉の姿から目が離せなかった。鬼と化した男の目には涙が溜まっていて、うわごとのように彼は繰り返していた。許してけれ、許してけれ、と。
それが何に対する謝罪なのか、それは卓明には一切分からなかった。だが、消える直前――下半身は完全に蒸発し、上半身も最早首を残すのみとなった時――卓明は確かに、徳吉がこう呟いたのを聞いた。
「……げんがいさま――」





