ホロウ - 第21話
「止めてけれ」
声がした。
掠れた、枯れ木を思わせるような声だった。
直後。
雷でも落ちたかのような轟音が洞窟内に響き渡った。
「えっ」
卓明は声を漏らした。目の前の出来事が正しく認識できなかった。
宇苑の体躯が浮いていた。否、すぐ後ろの岩塊に強く強く押し付けられていた。否、それも正確では無い。
「こいつ……!」
「止めてけれ、止めてけれ……」
男が居た。余りにも唐突に、降って湧いたように。卓明のすぐ傍に、ボソボソと呟く男が現れたのだ。男は自身の両手を伸ばし、宇苑の首元を掴もうとしていた。しかし、咄嗟に体が動いたのだろう。宇苑は自身が常に持ち歩いていた太刀を盾のように翳し、男の両手による束縛を間一髪で防いでいた。
ふと思い当たり、卓明はもう一度、反対側の壁際を見た。
居ない。
座っていた筈の人影が消えている。
つまり――。
「許してけれ」
再び男が呟くように言った。同時に男は突き出したその両腕を思い切り振り切った。それは想像を絶する膂力だったのだろう。両足が浮いた形で岩塊に押し当てられていた宇苑は為す術もなく、顔面を岩肌で摺り潰されながら宙へと放り出された。
卓明にとって、人間の体が大地に叩きつけられ、更にボールのように跳ねていく様相を見たのは、後にも先にもこれが初めてだった。
「宇苑に」
「止めてけれ」
また男が呟く。
酷い匂いだった。
生ゴミを寄せ集めて浜辺に放置しておいたかのような、どこか酸っぱくて鼻の奥が突き刺されるような、そんな匂いが男の喉から体躯から満遍なく放たれていた。男は埃が積もり積もった土蔵を片っ端から拭いて回った後の雑巾が如き汚れ切ったボロ布を纏っており、膨らんだ下腹部とアバラ骨の浮いた胸、そして骨に薄皮を張り付けただけのような両手両足と、絵巻物に見る餓鬼に酷似していた。顔面も頬骨の形がくっきり見えていて、頭髪の無いその顔を、卓明は髑髏そのものだと思った。
男の充血した眼の真ん中に、満月に似た金色の瞳がギラついている。
風のように速く、一足飛びで壁際からここにやってきて、宇苑を彼方へ吹き飛ばした男。その異常な伸縮を繰り返す喉仏と、以前に国明から聞いた昔話のことを思い起こせば、次に自分がどんな目に遭うかは容易に想像がつく。
卓明は尻餅をついた。自らの下腹部が温くなっていく。
「許してけ――」
「人食いッ!!」
鋭い一声が洞窟内の冷たい空気を切り裂いた。
振り向こうとした男の脳天に、右顔面を擦過傷で血塗れにした宇苑の、渾身の唐竹割が撃ち込まれたのを卓明は見た。歯を食い縛った宇苑が手にしていた太刀は、数週間前に祖母のナヲ子に襲い掛かった時と同様、鞘に納められたままだ。それでも、小さなつむじ風が巻き起こるほどの力が込められていたのだから、その威力は十二分であっただろう。
だが残念ながら――宇苑の相手は『人間』では無かった。
ゴン、という音を立てて頭頂部に太刀を受けた男は、しかし身じろぎ一つすることなくその太刀を逆に掴んだ。そして道端で見つけた棒切れを振り下ろす子供のように、宇苑の体ごとその太刀を大地へ振り下ろした。
地響きのような音がした。
受け身も取れなかったのだろう。顔面から地に叩きつけられた宇苑が痙攣している。
卓明は自らの歯がガチガチと音を立てていることに気づいた。洞窟中にその音が響いていて、止めようとしてはみるものの、体は卓明の意思に反して歯と歯を鳴らし続ける。
男は大地に突っ伏す宇苑を見つめた。次にゆっくりと卓明へと体を向けた。何か考えているのかいないのか、金色の瞳は湖面の月が如く頼りなく揺れている。男はぼそぼそと呟き続けている。止めてけれ。許してけれ。言葉と同時にフラフラと視線を宇苑と卓明の間で移動させるその様は、不安に取り憑かれた幼児のそれを彷彿とさせた。
だが。何巡目にか、彼の中で決着が着いたのだろう。
右往左往させていた視線をピタリと止めて、男は歩き出した。
――倒れたままの宇苑へと。
「ま! 待って! 待ちま、待ちましょう!?」
卓明のすぐ傍から声が響いた。声の主――国明は転がるように宇苑の元へ走り、やがて両手を広げて男の前に立ち塞がる。突然の闖入に驚いて隣の岩塊を見ると、岩塊と窪みの隙間が大きく開いていた。どうやら宇苑が叩きつけられた時に、岩は大きく動いていたらしい。
「あのっ、ほらっ、徳吉!? さんですよねッ! ホラッ、俺たち別に喧嘩売りに来たとかそういうんじゃ全然、全然違くて!!」
国明の広げている手は震えている。当然だった。
『人食い徳吉』は、人を食ったから人食い徳吉なのだ。
後に卓明は祖母から、人を食った人間が時として人間の枠組みを外れるという話を聞いた。それらは姿形は人間のそれと変わらない者の、人間とは比べ物にならない膂力と鋼鉄のような皮膚を持つという。日本ではこれを時に鬼と呼び、海外――カナダやアメリカ――ではウェンディゴと呼称される。そんなことをこの時の卓明は知る由も無いが、それでも十分に、男が宇苑へと足を進めようとした、その意味合いは理解できていた。
つまり――この男は、人食い徳吉は――宇苑を食おうとしている。
いや、そもそも。
兄やその友達をここで捉えていたのも。
尻餅をついた自分へと体を向けていたあの時も。
眼前の男は――。
「――ええとその家に帰れば飯! 飯があるから! 救助隊っす俺たち! 俺たちと一緒に来」
珍しく――当然だが――焦りに焦って早口になっている国明の両腕を、男はがしりと掴んだ。
そして。
「止めてけれ」
呟いた。
「止めてけれ止めてけれ許してけれ止めてけれ許してけれ止めてけれ許してけれ許してけれ許し」
「ゆ、ゆるゆるゆるゆるし許しますからとりあえずちょっと離れ」
「なして止めてくれねえだくれねえだくれねえだなああッ!!! おらがこげなとこでずっとずっとずっとずっとおったのになしてなしてなして!!! なして!!!!」
「ごごごごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんな」
激昂した男――徳吉が国明の首筋に噛みついたのは、国明が涙と共に謝罪を繰り返し始めた、まさにその時だった。





