ホロウ - 第19話
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思えば、卓明はその晩、何かが起きることを察知していたのかも知れない。後から思い返すと、そんな風に思えてならなかった。
父と祖母が昼間の間に仕事のために車に乗り込んでいくのを見届けたその日、夜は国明と母と三人で食事をした。確か魚の煮つけか何かだったが、普段以上に落ち着かない様子でお椀の中身を書き込もうとする国明を見て、母が「忙しないお兄ちゃんだね」と卓明に笑いかけたことを覚えている。
風呂は国明が一番、次に卓明と母が二人一緒に入った。風呂から上がると、普段はだらしなくリビングに寝っ転がりながらTVを見ている国明が、この日は既に自室に引き上げていて、不思議に思った母が様子を見に行くと「スゲー眠くて! 眠くて!」という眠気など一切感じさせない声を出していた。リビングに聞こえてくる兄の下手糞な言い訳を聞きながら、卓明は「そもそも出発できるのかな」と心配になったものだ。
そして夜……確か二十二時過ぎ。母も自室に引き上げ、家の中がシンと静まり返った頃、兄弟は彼らの部屋の中央で改めて確認をした。この外出を母に絶対に漏らさないこと。どれだけ遅くなっても深夜一時には帰ってくるということ。そして、もしその時間になっても国明が帰らない場合――卓明はいつもの原っぱに行き、宇苑に救助を要請すること。
心配は二つあった。
「僕、起きてられるかなぁ。それに、宇苑兄ちゃんだって来てくれないかも」
「一応、目覚ましは掛けておくから! あと夜道は滅茶苦茶暗いから懐中電灯もここに置いておくから! 宇苑の方は……多分大丈夫!」
ガバガバな発言を残し、国明はリビングのガラス戸からコッソリと出て行った。だが、結果として、卓明の心配は杞憂に終わり、国明の言伝は実に有効に働いた。
いつもと違って全く眠れなかった卓明は、結局目覚ましが鳴る前に布団から抜け出て、懐中電灯を手に原っぱに向かうことになった。原っぱでは宇苑が目を閉じたまま胡坐をかいていて、近寄ってくる卓明の足音に、小さくため息を漏らしたのだ。
卓明がしどろもどろに説明しようとすると、それを断ち切るように宇苑は大地に置いていた太刀を拾い、立ち上がった。
「戻って来てないんだろ。連れて行ってくれ。アイツが向かったっていう洞窟に」
道すがら、卓明は恐る恐る尋ねた。何故助けてくれるのか。何故起きてくれていたのか。
「昼間、キミの婆さんに念押しされてたんだよ。アイツが何かやらかしそうな気がするから、今日は一晩中起きていてくれって。で、もし助けを求められたら、自分の代わりに助けてやってくれって」
どうやら、祖母には見透かされていたらしい。
「助ける代わりに、キミの婆さんからは『この剣の封印を解いてやる』って言われてる。だからまぁ……真剣に動くし、そんなに不安な顔しないでくれ」
「宇苑兄ちゃん――」
「その呼び方」
誰もいないアスファルトの坂道を、規則的に灯っている電灯の光を辿るように進む中、宇苑は吐き出すように言った。
「やめてくれ。頭が痛くなる」
早足で進む宇苑の背中を見ながら、何となく卓明は思い出していた。
『こんなお婆ちゃんに手も足も出ない子供が、ご両親や弟さんの仇討ちなんて出来っこないわねぇ』
「じゃあ、なんて呼べばいいかな」
「宇苑。呼び捨てでいい。俺はキミの兄貴じゃない」
『――弟さんの仇討ちなんて――』
「でも、お婆ちゃんは家族だって言ってた」
「それ言ってるの婆さんだけだろ」
「兄ちゃんもよく言ってるよ。自分と宇苑……兄ちゃんはどっちが弟っぽいだろう、とか」
宇苑は振り向かなかった。卓明には、その背中が妙に物寂しく見えた。
「……宇苑兄ィ、って呼ぶね」
稀に国明が自分のことを「国兄ィ」と表現するのを思い出し、卓明はそう告げた。国明と宇苑……彼らにとってどちらが兄でどちらが弟なのかは分からない。が、自分にとってはやはり、二人とも兄と表現すべきだろうと思った。
少なくとも。
こうして夜中に共に歩いてくれている――例え見返りがあろうと、祖母や自分の助けを聞き入れてくれているその姿を見る限り、宇苑は『家族』と呼ばれることを、心の底から嫌がっているわけではない。
ように、思う。
「――そう言えば、アレなんなの?」
坂道から砂浜へ続く階段を下り、数日前に「あっちの方にあるんだぜ」などと国明が得意げに言っていた方向へと海岸を先導し始める卓明に、ふと、宇苑が尋ねた。
アレって、と尋ね返すと、海がどうとか、と隣で宇苑が言う。
「夜に海を見るな、のこと?」
頷いた宇苑に、歩きながら卓明は自分なりに説明を試みた。と言っても、小学一年生が行う説明である。後から振り返っても、とても分かり易いものとは言えなかっただろうと卓明は考えているし、むしろ混乱を推し進めただけのような思いがしてならない。
「この辺りのタブーの一種、か」
ボソリと呟いた宇苑の言葉を、その時の卓明は理解できなかった。ただ、何となく宇苑がこちらの意図を汲み取ってくれた――それだけは何とか分かった。
「卓明」
恐らく、その時が初めてでは無かっただろうか。宇苑が、明確に卓明の名を呼んだのは。
「道が悪くなってきた。背中に乗って」
宇苑の言う通りだった。続いていた砂浜はやがて凹凸の激しい岩肌へと変わってきていて、波に濡れた岩を跳びながら進む必要がある。滑りでもすれば全身を強打するか、悪ければ岩と岩の隙間に落ちて墨色の海へ真っ逆さまだ。
そしてそれは、国明らが入り込んだという洞窟――道と呼ぶべき道のない海際を進んでいった先も、同様だった。





