ホロウ - 第16話
今度は宇苑を遮って、祖母はくるりとこちらを振り返って言った。それから宙で自身を睨み続けている宇苑のすぐ隣を横切り、ガラス戸から外に出ていく。それに付き従うように、宇苑の体躯も音もなく宙をスライドした。やがて……二人は庭から裏手の森へと静かに消えていった。
「……やっべー、婆ちゃんやっべー」
暫くして、国明が興奮を隠しきれない様子で言った。
「やっぱガチもんの除霊師は違うなぁ。知ってるかたっくん、婆ちゃんは父ちゃんより強いんだぞ。この前、父ちゃんが言ってた」
「そ、それよりあの二人、どこに行ったんだろ」
「ん? ……気になるか?」
兄は悪戯っぽく言った。卓明は頷きながら、どうして兄はこんなに無邪気に居られるのだろうと疑問に思った。少なくとも、宇苑――あの少年の様子は普通では無かった。腫れあがった頬から察するに、怪我もしている筈だ。恐らくは顔だけではないに違いない。
「じゃ、つけるか?」
「つける?」
「尾行、ってやつだよ。この前のドラマでもやってたろう?」
二人は急いで準備をして、祖母を追跡した。幸い、裏手の森へは小道が一つ走っていて、卓明は兄に促されるままにその道を進んだ。祖母が途中で道を逸れていたら、などとは考えもしなかった。道がある。だからそこを歩いていく筈だ。そう考えて疑わなかったのだ。
そして、このときはそれが功を奏した。
十数分ほど進むと、小道は開けた場所に行き着いた。広場、とも形容出来るだろう。緩い傾斜があるものの、半径数メートル程度のその場には幹の太い広葉樹が一本も生えておらず、足首程度の草花が燦燦と日光を浴びていた。
「――だからね、宇苑ちゃん。強くなりたいなら、焦らないで少しずつなの。それが一番の早道なんだから」
祖母の声が聞こえた。原っぱの手前で、卓明は兄と同じ木の裏に隠れる。そして、そうっと覗き見る。祖母と宇苑の姿を。
卓明は絶句した。
宇苑が大の字になって倒れている。
その顔面に、ナヲ子は宇苑が手にしていた筈の剣を突き立てている。勿論、鞘は付いたままだ。たが鞘の切っ先部分で強く強く押されているのだろう、突き立てられている宇苑の額からは血が流れ出ていた。
「少なくとも、こんなお婆ちゃんに手も足も出ない子供が、ご両親や弟さんの仇討ちなんて出来っこないわねぇ。太刀に掛けた封印も解けていないじゃない。挑んでくるなら、まずこれを解いてみなさい。そのためにも、心・技・体のすべてを整えること。仇を討ちたいなら、当面はそれだけを考えなさい。ね?」
宇苑のこめかみを伝っていく赤い血が、陽の光で異様なまでに輝いている。
彼の表情は……卓明の位置からは見えなかった。
「さて、それじゃそのまま暫く休んでいなさいね。あそこの二人と遊ぶのもいいかもねえ。でも、せめて夜には家に帰ってくるんだよ。ご飯もお風呂も毎晩用意しているんだから」
「うわっ。バレてる」
兄がぼそりと呟いた。えっ、と小声を漏らしてその顔を見上げると、国明はどこか引きつった笑いで原っぱを見据えていた。
「婆ちゃん、パネぇ~……」
「それじゃあ国ちゃん卓ちゃん、お婆ちゃんはお家に帰るわね。お昼ご飯の準備しなきゃ」
祖母はそう言って手にしていた剣をそっと原っぱに置くと、くるりとこちらを振り向いた。にこにこと笑顔を絶やさず、祖母は卓明と国明の隣を通って家へと帰っていく。……確かに、気づいていたらしい。でも、いつから? どこから?
「たっくん、行くぜ!」
「あ、兄ちゃん、ちょっと待っ」
「よお宇苑くん! 邪魔するぜ!!」
卓明の戸惑いや躊躇など意にも介さず、国明はずんずんと宇苑のもとへ進んだ。いまだ大の字で寝ころんだままの宇苑の隣に座り、「傷だらけだなぁ!」と快活に笑う。
「痛くねーの!? 俺なら泣いちゃうぜ、多分!」
宇苑は……何も言わない。卓明は国明の傍に駆け寄り、兄の隣から静かに、宇苑の顔を覗き込む。
宇苑がじろりと、目だけを卓明に向けた。
鋭い眼差しだった。すんなりと表現すると、それは卓明にとってあからさまに『怖い』視線だった。
「おいおいぃ、家族なんだぜ? そんな睨むなよぉ。なぁたっくん! さっきのアレ!」
「で、でも……」
「大丈夫大丈夫! ほら!」
催促されて、卓明は恐る恐る、家から持ってきた肩掛けバッグを開いた。そして……中から絆創膏を数枚取り出し、腫あがった宇苑の顔の傷にペタペタと貼っていく。
宇苑は。
目をパチパチと瞬かせていた。
「たっくんがさぁ、お前が傷だらけだからさぁ、持って行った方が良いってさ。安静にしておれば効くであろうぞ。
あ、それからこれも」
国明が卓明のバッグを開き、小さな包みを取り出す。そして、アルミホイルで雑にまとめたその内から、ラップで巻いた形の歪な握り飯を複数、宇苑の胸に置いた。
「もうすぐお昼だろ? ゆえに作って持ってきたのだ。腹が減っては……何か色々出来ないらしいっていうじゃん!」
今更ながら、卓明は兄の軽妙さを誇らしく思った。誰にでも屈託なく笑いかける――今この瞬間、卓明らを拒絶している宇苑に対してすら。
凄いことだ、と思う。
傷だらけの野犬のようにぎらついた者にさえ、変わらず笑顔で居られる。それは多分、父にも母にも出来ないことだ。
それから国明――と、たまに話題を振られて口を開く卓明――は、返事をしない宇苑に対して一方的に話し続けた。内容は、他愛もない日々の出来事。夏休みの宿題の量がおかしいだとか、肝試しをしたいんだとか、好きな食べ物は何かだとか、そんな話だ。そして話すだけ話して、国明は不意に立ち上がり「それじゃ俺たちも昼飯だし、戻るか」と言った。
「宇苑くん、気が向いたらウチに来いよな。俺もたっくんもさぁ、やっぱ気になるんよ。外で独りなんて寂しいだろ? お前の事情は知らないけど、知らなくたって別にストⅡは出来るからな! あ、俺たちもたまにここに来るぜ。そしたらお互いビョードーな感じじゃんか」
んじゃな、と話を切って、国明は歩き出した。その後ろを急いでついていきながら、卓明は一瞬、宇苑へ視線を向けた。
こちらに向ける眼差しが、幾分か和らいだ……ような気がした。





