ホロウ - 第15話
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古い友人の頼みで、一人の男の子を家族として迎え入れることにした――事前情報はそれだけだった。祖母のナヲ子は柔和で人懐こく、街の皆から慕われる人格者だったが、その一方、頑なに自分を曲げない頑固なところがあった。
彼――渡辺宇苑を家に迎えるという話を明かした時の祖母はまさにそれで、傍目から見ても異様に感じる程だった。母や父が「そんな急な」とか「どこの子なんです」とか「ウチはそんなに裕福な訳じゃないんですよ」とか至極尤もな反論をどれだけ唱えようと、ナヲ子の回答は一つだった。「もう決めたことだから」。どんな論理的な反論も、感情的な糾弾も、ナヲ子には何の効果も無かった。
「卓ちゃんは、宇苑ちゃんと仲良くしてくれてる?」
夏休みの宿題を居間で進めている時、隣に座ったナヲ子がそう聞いてきたことがある。開け放したガラス戸からは海風が吹き抜けていて、更に扇風機が首を振りながら居間のあちこちに空気を送ってくれていたが、それでも汗が滲んでいた事を覚えている。因みに国明は座卓テーブルの向かい側で豪快にイビキを立てていた。気楽だなぁ、と感じたことを卓明は未だに覚えている。
「仲良く……したいけど」
「けど?」
躊躇しながら、卓明は祖母に告げたものだ。
「あの人、アレから全然見ないよ。どこに行ってるの?」
アレ、とは半死半生の初お見えのことを指している。そう……新しい家族だ、などとナヲ子は言ったけれど、当の宇苑の姿は家のどこにも無かったのだ。
あの後、祖母に連れられてフラフラと家へ続く坂道を歩いていた彼は、その道中で不意に高く跳び上がり、側道を越えて山の中へと消え去ってしまったのだ。父と母は唖然としていた。兄だけやたらめったら「すげぇ!」「猿みたい!」などと興奮した口調で叫んでいたが、その様に逆に卓明は感心したものだ。もっとこう……何かないのだろうか、と。アニメや映画じゃないのだ。目の前で人間が――それも一般的には子供と称される者が――眼前で山中に消えたというのに、何をキャッキャと騒いでいるのか。
「そうか、そうだねえ。お婆ちゃんは毎日会ってるけど、卓ちゃんは会えてないんだものねぇ」
「毎日会ってる? そうなの?」
「そうだよ。あの子はね、この家に修行に来てるつもりなの。だから――」
「修行!? いま修行って言った!?」
不意に、イビキをゴウゴウと立てていた兄・国明がガバリと起き上がった。物凄い勢いだった。
「あら国ちゃん、おはよう。宿題は進んでる?」
「何とかなる! それより婆ちゃん、修行ってことはアイツやっぱり除霊師なの!? 婆ちゃんの弟子ってこと!?」
国明は早口で捲し立てた。ナヲ子はニコニコしながら「そうだよ」と返した。
「すっげー! 俺と同い年くらいなのに! すっげーや!
ねぇ、どんな修行してんのアイツ! なぁ婆ちゃん!!」
男の子だねぇ、と祖母はカラカラ笑った。それから、祖母は国明と卓明に話してくれた。宇苑は今、織田家の北に広がる森――正確には、海に面した小さな山の一部分――にて、彼の家に代々伝わる剣の使い方を学んでいる。時折、祖母は彼の元に向かい、実戦形式で彼に稽古をつける。夕方にはすべての修行は終わり、いつも彼に「家に来なさい」と告げるのだが、宇苑は何も答えず森の奥に消えていく……。
「剣?」
「あの人、そんなもの持ってたっけ……?」
数日前の初邂逅を思い出すが、卓明には宇苑のボロボロの体躯しか思い出せなかった。というか、あの状態で病院にも行かず山籠もりを続けているなんて、大丈夫なんだろうか。
「国ちゃんや卓ちゃんに会った日はね、お婆ちゃんが剣を取り上げてたからね。危ないことが出来ないように幾つか封印をしたから、もう返してあげたよ。ホラ、あの通り」
祖母が言った途端、バサリと何かが庭の方に落ちた音がした。卓明と国明がほぼ同時に庭へ――開け放たれたガラス戸の向こうへ目を向けると、あの日見たあの少年が、砂利の上で膝をついている。
その時の少年――宇苑の様相を、卓明は今でも瞼に裏側に思い描くことが出来る。柿色のぶかぶかの半纏にドロドロのズボンとシャツ。もじゃもじゃの髪の毛には小枝や蜘蛛の糸が絡みついている。山を、林を真っすぐに突っ切ってきた――そんな感じだ。しかし、それより何より卓明の目に焼き付いたのは、少年の形相だった。
口の端からは血の混じった泡が噴き出ている。ふーふーという荒い息を食いしばる歯の隙間からは、唾液と共に血が流れていた。
彼はこちらを見た。正確には祖母・ナヲ子を、だ。右の頬骨近くが紫色に腫れあがっていて、充血した両目の下にはどす黒い陰が宿っている。
鬼、と言っても過言でない表情だった。
宇苑は獣のような咆哮を上げながら、強く大地を蹴った。瞬く間に、彼はガラス戸付近で立ち上がった祖母へと飛び掛かっていた。両手で握り締めた棒状の何かを、全力で振り下ろしながら。
国明が「婆ちゃん!」と声を上げた。
「大丈夫よ」
優しい――恐ろしい程に優しい声色で祖母が言うと同時に、宇苑の体躯はピタリと止まった。宙にいながら、だ。まるでストリーミング再生中の動画で停止ボタンを押したかのように、あまりにも急に、何の前触れもなく、鬼の形相をした少年の体躯は宙空でストップしたのだ。
「ほら、国ちゃん、卓ちゃん、分かる? これが宇苑ちゃんの剣。鞘から抜けないようにしてるから分かりづらいだろうけど、とても古いものなの。二人は触っちゃあダメ」
……確かに、宇苑が両手で握り締めているのは、鞘に納められたままの太刀のようだった。と言っても、真剣はおろか木刀も見たことがない卓明にとって、それは「手元に何か鍔らしきものがついている棒」にしか見えない。それに何より。
「婆ちゃん、それはいいけどさ」
「だ、大丈夫なの、この人……?」
大丈夫よ、と祖母が繰り返す。嘘だぁ、と卓明は胸中で呟いた。両足だけ動くのか、宙でばたばたと足を動かして藻掻くその様は、蜘蛛の巣にかかった虫のように見えなくも……いや、無理だ。怒りに満ち満ちた鬼のようなその形相は、虫と形容するにはあまりにも厳めしい。
「っていうか、何で宙で止まったのソイツ」
「あら、二人には見せたこと無かったかしら。これはね、お婆ちゃんの力なの。超能力みたいなもの」
「婆ちゃん、超能力者だったの!? すげー!!」
「うふふ、他の人には内緒よ。お父さんやお母さんにもね。
さてと、宇苑ちゃん。それはそうと、初日に言ったでしょ? 強くなりたいならしっかりご飯を食べてぐっすり眠らないとダメだ、って。それなのに全然この家に戻ってこないし、その様子じゃ昨日の晩も寝てないんじ」
「――ほどけ」
祖母の声を遮って、宇苑が言った。
兄と同い年の少年とは思えぬ程、重い声だった。
「ほどいて、俺ともう一度勝負しろ! 今度は」
「ごめんね国ちゃん卓ちゃん、ちょっとお婆ちゃん行ってくるわね」





