ホロウ - 第13話
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破滅的な地震が収まって十数秒が経過した後、織田栄二はようやく目一杯に踏み込んでいたブレーキから足を放した。それから慌ててサイドブレーキを下ろし、動きかけた古い乗用車をしっかりと道の端に停車させる。
何が起こったのかは全く分かっていなかった。
今日は母・ナヲ子の具合がいつにも増して宜しくなかった。だから祭りの準備の最中、何とか無理を言って坂の上の飾荷ヶ浜総合病院まで車を走らせ、睡眠導入剤と鎮静剤を顔見知りの医者に頼み込んで調剤してきてもらった。その間、妻の朋美と甥の国明が母を何とか寝かしつけてくれたらしい。自堕落な生活を送っている甥が手伝ってくれたのは少し意外だったが、自分が祭りの準備に入っている間に、それだけ母の様子は悪化したということなのだろう。
いずれにせよ、寝かしつけて貰えたのは実に助かった。最近の母は夜中に大声を上げて起き出すといったことが頻発していて、介護をしている妻の様子も限界に達しつつあった。帰ったら祭りの準備はやめさせて、ゆっくりしてもらおう。なに、その分、甥の国明と卓明にはいつも以上に手伝ってもらえばいいのだ。卓明は今どき珍しい程に素直な子だから、少なくとも彼は間違いなく手を貸してくれるだろう。国明は……卓明にも協力してもらえば、何とか引張りだせる筈だ。そもそも兄・継一が急逝したことで自分が急遽実家の神社を取り仕切ることになってしまったが、本来は継一の長男である国明がすべきことなのだから、どんな屁理屈を捏ねようと国明は必ず引っ張り出さねばならない。……そんなことを思いながら、病院から続くなだらかな坂を――この付近一帯を見下ろせる国道を下っていた時だったのだ。
突然、周囲が暗闇に閉ざされた。
次いで、臓腑を揺るがす大音響と共に大地が揺れた。それは無理やり頭をシェイクされたかのような錯覚を覚えるほどの地震で、まともに前方を見ることなどとても出来なかった。故に、彼は反射的にブレーキを踏み、ハンドルを強く握りしめ、車の中で体を縮めた。
そして現在。
彼は、恐る恐る車の外に出た。
幸いにも、対向車も後続車も見えなかった。車のライトはつけたままにしてあるから、少なくとも対向車がここに突っ込んでくることは無いだろう。念の為に社内ライトとハザードランプも点けて、それから――彼は街へと目を向けた。
地獄が広がっていた。
空は昼だというのに塗りつぶされたように真っ黒で、星など一欠片も見えない。海へと続くなだらかな斜面には、集合住宅や幾つかの学校、昔ながらの家屋や旅館もあれば錆びついた工場もある。港には近海での漁を目的とした小さな船舶がいくつも停泊している。そして、闇の中でもそれらが見えるほど――街の至るところで炎が上がっていた。
無理も無い。お昼を少し過ぎた時間とは言え、料理中の家庭も多くあっただろう。そこにあの巨大地震だ。火災の発生は致し方ない。消防車が出動しているのか、サイレンの音も微かに聞こえた。だが、それ以上に耳に響いてくるものがある。
悲鳴だ。
無数の悲鳴が、絞り出すような悲鳴が、臓腑も骨も凍えさせるような凄まじい悲鳴が、あちこちから響いている。それは潰れた家屋の下敷きになった人々によるものかも知れないし、或いは火事に巻き込まれて助けを乞う人々のものかも知れない。
年に何度かTVで流れる、過去の大地震のニュース映像が記憶に蘇った。
よく見れば、港の周囲――特に古い建物が多くあった辺りは、跡形もなく崩れ去っている。あの揺れだ、ひとたまりもなかったのだろう……。
……いや。
「なんだ?」
栄二は一人呟いた。おかしい。港の近くから街の中央にかけて、異様に大地が抉れている。まるで地面とほぼ平行にやってきた隕石が、その衝撃波で街を線状に削り取ったかのようだ。或いは……何か巨大なものが地の底から現れて、海へと消えていったかのような。
『栄二。これはあくまでもしもの話だが――』
ふと、脳裏に兄・継一の声がフラッシュバックした。忘れもしない。あれは兄が亡くなる一週間ほど前。普段は年賀状の遣り取り程度しかしていない兄が、突然電話を掛けてきた時のことだ。
継一は暫く取り止めのない話をしてから、ふと緊張した声色で言った。
『もし、俺の身に何か起きて……いや、そうじゃない。
もし、この飾荷ヶ浜全体に、何か異様な事態が起きたら――』
「異様な事態……」
闇に飲まれた街。突然の巨大地震。悲鳴。炎。そして、抉れた大地。
異様――間違いなく異様だ。少なくとも、昼は一瞬で夜にはならない。
「兄貴、これが――」
『その時は、栄二。疑うべきは――』
――その時だった。
栄二は見てしまった。
いや、目に入った、といった方が正しいのかも知れない。いずれにせよ、本来、それは意識の介在する領域の問題では無かった筈だ。何せ、彼が目を向けたのは暗い海――夜よりも濃い闇を湛える、悲鳴と炎の渦巻く街の更に向こうだ。十数km先の海に漂う物体など、軽い近眼である栄二には見える筈も無い。
それなのに。ああ――これまでの人生でも、噂は聞けど一度たりとも目にすることはなかったのに。それなのに。
見てしまった。見えてしまった。異様な程にはっきりと。
彼は見たのだ。波間に浮かぶそれを。見える筈のない距離を超えて、まるで運命がそれを彼に差し出したように。
喉の奥から悲鳴が漏れたのが分かった。神主という役職上、不思議な、或いは不気味な出来事にはそれなりに遭遇するものだが、そんな経験は一瞬に霞んだ。それ程に彼の全身は『それ』に警告を発した。全身の隅から隅まで鳥肌が立っていた。
波に運ばれてくるのだという。
この地方では、それを見ると気が狂うという。だから言い伝えが残っている。
夜は海を見るな。
成程、街を覆った突然の闇は異常と言う他無い。だが、『夜』が天体の位置関係による太陽の光が当たらない時間――ではなく、闇という状態そのものをも含有するのであれば、彼はまさしく『夜に海を見た』のだ。故に、彼は墨色の波間にそれを見た。
理由など分からない。だが間違いない。
それは人間の頭だった。苦悶に身を歪め、頭から血を流し、滂沱の涙を流している。
織田栄二――他の誰でもない、彼自身の頭を、彼は墨色の波間に見た。
こうして、地獄のような長い夜が始まった。





