ホロウ - 第12話
空が見えた。星の無い真っ暗な空。コンクリートの天井は消えている。入ってきた勝手口も。それどころか、床すらも。
丁度、宇苑の立つ位置から数メートル先……ゴロゴロと転がる瓦礫の先で、ぶっつりと大地が途切れているのだ。
卓明はフラフラと歩いた。宇苑の隣に立って、目前の光景にポカンと口を開ける。
数十……いや百数十メートル以上に渡って、正面の大地は陥没していた。恐らく崖下――最早この場はそう呼ぶしかない――までは五十メートル近くあるだろう。粉塵がまだ全て晴れた訳ではないが、少なくとも正面に捉えた視界の端から端までが全て、地の底へと落ちている。卓明は何となく、数日前にTVで眺めていた怪獣映画を思い浮かべていた。ビルよりも巨大な古代恐竜の生き残りが、その尾を振り上げて大地に叩きつけ――その場にあった無数の建物が抵抗も出来ずにひしゃげ砕け押し潰される。そして、大地には抉れたような跡と無数の瓦礫が残る……。
「割と間一髪だったかもね、これ」
隣で宇苑が言った。卓明は膝の力が抜けてその場にへたり込んだ。宇苑の言う通りだ。あと数メートルでも勝手口に近づいていたら、自分たちも『何か』に押し潰されていた。抉れた大地の片隅で肉片と化していたのだ。
そして、自分たちは運良く『何か』から逃れられたけれど……この近くに住んでいた町の人達は――。
「――みんな、死んだのか……?」
「近くに居た人は、そうだろうね」
何でもないことのように宇苑は言った。そして、困ったように続けた。
「これじゃ国明のところにすぐ帰れそうにないな」
茫然としたまま、宇苑の言葉に導かれるように前方を見る。同時に、ドーンという低い音が闇を震わせた。見ると左方――海側から、ひしゃげて陥没した数十メートル下の瓦礫の小山へと海水が鉄砲水のようになだれ込んでいる。海抜よりも低い位置まで陥没したのだから当然と言えば当然だが、とにかくそれは、卓明が猛スピードで自転車を立ち漕ぎしてやってきた坂道の残滓までもが海に沈むことを意味している。
「何が……何が起きてんだ……」
ほぼ無意識に呟いたが、その言葉は何よりも切実に彼の心境を表している。つい数十分前までは家で兄に昼飯を作っていたのに、今や昼は夜に代わり、懐かしい来訪者と同時に話に聞いていた真っ黒な影が現れた。そしてその上、何かに踏みつぶされたかのように町の一部は陥没して地の底、海の底へ沈んだ。
「分からないけど、とにかく国明とナヲ婆が心配だ。家に戻るには……回りこんで進むしかないな。たっくん、立てるかい?」
そう言ってひどく冷静に――どうしてこんな状況でそんな涼しい顔が出来るんだ――宇苑はへたりこんでいる卓明の腕を取り、そのまま無理やり引き上げて立ち上がらせた。そしてその手を放すことなく歩き始める。
強い力だった。
「ちょっ、ちょっと待っ」
「待たない。っていうか待てない? さっきたっくんが襲われかけたあの黒い影のこともあるし、流石にこんなバカでかい川……海? を渡るのは無理だ。ぐるっと――向こうの住宅街辺りまでは地面の陥没は届いてないみたいだし、そこまで行って――回って向こう岸へ、だ。かなり遠回りになるけど、やるしかない」
「い、一体いま何が起きたの? 地盤沈下ってヤツ?」
「僕に聞かれてもねえ。まぁ、僕とたっくんが無事で良かった、ホント。そこだけは運が良かったよね!」
「さっき俺を殴ってた奴らはどうすんの? 置いてくの?」
「え、逆に聞くけど助ける義理ある?」
「でも放っておいたらあの人たち」
「運が良かったら生き残るさ。あ、そうそうあの黒い影――ボスに倣ってカイ・ウカイって呼ぼうか――一度会って分かったけど、あいつらは目を合わせたら近寄ってくるタイプっぽいから見つけても目を逸らし続けたらいいよ。まぁどうしてもアレなら僕が叩き斬るけど」
ずんずんと宇苑は歩いていく。こけそうになりながら、引きずられるようにしながら、瓦礫と粉塵塗れの崖沿いを彼に続いて進む。疑問が次から次へと湧いて頭の中は混沌としていた。
脈動が耳の奥底で強く響いていて、時折進行方向から聞こえてくる悲鳴が、まだ彼らの他に人間が生きているということを訴えている。
「町の人も」
見捨てるの、と卓明は聞いた。
「僕はヒーローじゃないから」
幻滅したかい、と宇苑は返した。
ごお、ごおという風の唸りに似た重低音が大地を微弱に震わせている。『何か』に圧し潰され、陥没した大地を洗い流そうとする海水の猛る音。地が震える程のエネルギーだ。人間が抗うことなど――。
「――分かった。分かった。分かったよ宇苑兄ィ。分かったから、一旦手を放してくれ」
そう? と宇苑は軽く返して、ぱっと片手を開いた。掴まれていた腕が解放されて、転びかけていた体を何とか立て直して、何度も深呼吸をする。思考を体の隅々に行きわたらせるように。
――何が起きているか何も分からない。
――だから今できる最善をするしかない。
深呼吸をしながらそう、自らに言い聞かせた。それにそう――一体何があったか見当もつかないが、先ほど町を圧し潰した『何か』が、またやってこないとも限らないのだ。自分たちの頭上に。そう思うと、既に自分は九死に一生を得ているとすら言える。
「宇苑兄ィ」
「なに?」
「ありがとう。俺を助けてくれて」
卓明は顔をあげて言った。宇苑の背は高く、卓明よりも頭一つ分は目線に差がある。だが、それでも。
「どういたしまして。引き続き守るから安心してよ、何せ僕はお兄さん! だからね」
宇苑の目に優しい光が宿ったのを卓明は見た。そうだ――卓明は胸中で呟いた。彼は自分の手紙によってこの町を訪れた。何が起きているのか、宇苑自身も分かっていない。だがその中で、必死に自分を守ろうとしてくれている――。
「宇苑兄ィ。一つ、言っておかなきゃいけないことがある」
「なんだい、改まって。あと歩きながらでいい?」
「すぐ終わるよ。もしかしたら覚えてるかもしれないけど」
念のために言っておくね、と前置きして、卓明は言った。
「何があったのか分からないけど、今は真っ暗だよね。だから一応、ホントに一応だけど」
「うん」
「この地方で言われてることがある。それを守ってほしい」
夜は海を見るな――卓明はそう、言い伝えの通りに言葉を紡いだ。





