ホロウ - 第11話
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輪唱のように、或いは反響するかのように。工場の外から、無数の叫び声が、悲鳴が、空気を伝ってやってくる。
耳を塞いでもダメだった。気味の悪さに吐き気さえ覚えた。舌の根が震えてまともに声が出せない。それでも何とか傍らの兄の名を呼べたのは、微動だにしない宇苑の背に一筋の光を見出したからかもしれない。
「う、うう宇苑兄ィ、何が」
声が途切れた。卓明は見た。工場の奥。視線の先。彼らの正面。
そこに、ニメートル近い大きな人影が立っている。いや。
こちらを見ている。
鍵穴のような形だ。身長の半分は直立した柱のようで、その上に真球が乗っている。どちらも真っ黒だ。塗り潰したような黒だ。落ちていきそうな錯覚を覚える。
その形に。
卓明は、覚えがあった。
「あれって」
宇苑に目を向け、再度視線を戻した。それがいけなかったのだと本能的に分かった。
漆黒が眼前に居た。
何の音もなく。つい先程は数メートル先に居た筈の闇が、鼻先数十センチのところに居る。卓明は声を上げた。
刹那だった。
風を斬る鋭い音がした。
「大丈夫」
霧を払い除けたような、そんな感じだった。それ程に容易く見えるほど突然に、眼前の闇は雲散霧消した。見ると、どこから取り出したのか、宇苑が鞘に納められたままの太刀の鋒をこちらに向けている。あれで人影を切り払ってくれたらしい。
「パニックになるのが一番いけない。たっくんには僕がついてる。怖がらないで」
「あ、ありがとう……」
呟くように言いつつ、卓明は密かに感動していた。この淡々とした口調、そして――何が起きたのかはイマイチ理解できていないが――何でもないことのように卓明を助けた実力。かつて共に暮らしていた時の宇苑の姿そのものだ。
「これが多分、ボスの言ってたカイ・ウカイってヤツだな。だけど、ボスの予想よりかなりマズい感じがする」
未だ遠くから響いている悲鳴の数々に、宇苑が淡々と呟く。そうだ、感動してる場合じゃなかった――卓明は我に返った。
「う、宇苑兄ィ! これ、何が起きてるんだ!? カイカイって何!?」
「実は僕も良く分かんない。ただ、たっくんの手紙を読んだうちのボスが言ってたんだ。『海の近くに現れる真っ黒なもの』――これだけじゃどんなものか分からないけど、姿として近いものを挙げるならカイ・ウカイだ、って」
上海で現れたことがある化物らしい、と宇苑は続けた。現地の言葉で『海の魔物』という意味らしい。
「人を食おうとするとまでは言ってなかったけど、外が夜に変わったのも何か関係あるのかもね」
「食おうと……? お、俺いま食われかけてたの!?」
「ふいんき的にそうだと思う。で、外の悲鳴を聞くに、多分この街の中で大量発生してそう」
恐ろしいことをさらりと宇苑は言ってのけた。つまり……この悲鳴は今この瞬間にも街の住人が食われているということか? さっきのやつに?
「た……助けなきゃ!」
「何で?」
「なんでって……く、食われてるかも知れないんだろ!? なら――」
「ごめん、もう少し細かく言うね。いまこの瞬間に、国明やナヲ婆が襲われてるかも知れない。だから他の人に構ってる余裕はない」
卓明は絶句した。
また悲鳴が聞こえた。はっきり分かる。女性の声だ。
「こんなことになるなんて僕も思ってなかったけど、なっちゃったものは仕方ない。家族の救出が最優先だ。たっくん、ひとまず国明のところに戻ろう。あいつの近くにはナヲ婆が居るけど、ボケてるんじゃどうしようもない」
そう言うと、宇苑は強い力で卓明の腕を掴んだ。否応無しに引っ張られ、足が動く。混乱していた。兄や祖母は大事だ。だが、叔父や叔母、高校の同級生たちのことも気になる。そして勿論――。
「待って宇苑兄ィ、那奈、那奈は――」
――声を発した、ちょうどその時だった。
突如、大地が震えた。
「なんだ――」
宇苑がそう呟いたのと、振動に伴う轟音が彼らの耳を潰さんばかりに響いたのはほぼ同時だったと言っていい。突き上げるような衝撃で彼らの体躯は瞬間的に宙へ浮いた。
バキン、という聞き覚えの無い重低音がした。地鳴りか土砂崩れの時のような強大で膨大な音の塊が臓腑はおろか骨の髄まで揺るがし、その無造作で荒っぽい振動は卓明の体躯を大地に突き倒した。宇苑が何か叫びながら彼に覆いかぶさった。粉塵と共に天井が瓦礫と化して落ちてくるのが見えたが、そこから先の光景を卓明の脳は拒否したらしい。彼は目を瞑り、耳を覆って、うわああと叫んだ。その叫び声すら掻き消すような破壊音が永遠のように響き続けた。
……それでも。
破壊は永遠では無かったらしい。
大地の震動――ここに至ってようやく、卓明は自身を引き倒したそれを地震と呼ぶべきだと考え付いた――が、いつの間にか止まっている。耳はおかしくなっていた。キーンという甲高い音が鼓膜の異常をこれでもかというほど訴えかけている。
目を少しずつ開いた。
温かな感触があった。
宇苑兄ィ、と彼は呟いた。呟いたのだと思うが、なにしろ耳がおかしくなっていて、それが声として成り立っていたのかは分からない。だがとにかく、彼のすぐ頭上には古くさい柿色の半纏を着た宇苑の体躯があって――彼を覗き込んで何やら話している宇苑の額からは、どろりと鮮血が流れ出ていた。
宇苑兄ィ、と再度叫んだ。
「大丈夫そうならよかった。痛いところは? まぁこの状態じゃあ興奮して痛くても気付けないかもだけど」
「いやそれまさしく今の宇苑兄ィにこそ! 頭! 頭から血ィ!」
「へ? おお、ホントだ。ま、大丈夫でしょこれくらい」
何でもない事のように言って、彼はスッと立ち上がる。そして乱雑に額の血を拭う。
「この程度じゃ僕は死なない。何せ強いからね」
それより、と宇苑は続けた。視線を背後へ向ける彼につられるように、未だ粉塵の舞う中、卓明もまた立ち上がる。
前方を見る。
喉に纏わり付く不快な埃に軽く咳をしていると、やがて視界がハッキリしてきた。連れられてきた渚家の工場。ここからは丁度、十数メートルの何も置かれていないコンクリートの床を隔てて、外に通じる勝手口が見えていた。
筈だった。
「……なんだこれ」





