ホロウ - 第10話
「はぁいパパ」
それじゃあねぇ、と気色の悪い甘えた返事をして――ついでに立ち上がってドアの傍に立っている彼の肩をポンと叩いて――多昭は社長室を出ていった。それを見届けてから、叩かれた肩の辺りを軽く払う。不快だ。
「ところで」
ふと、社長が声を掛けてきた。やはり柱時計を見つめたままだ。こちらへ体を向けない……いや。
向けようとしていない。……向けたくない?
「港の方に行ったんだってな。何か見なかったか?」
「はい? 何か、とは?」
社長は暫く無言だった。やはり妙だ。この部屋に来るのも社長に会うのも久々だが、何というか……前回に比べて、妙に。
おどおどしている。
「真っ黒な……いや、何も見なかったのならいい。今日は祭りの日だな?」
「はい。おかげで町中は空いてましたよ。いつもとそう変わらないといえばそうですが」
「櫓は総合病院下の公園だったな。……ここよりは海から離れるし、神社も近いか……」
「社長?」
どうかされましたか、と尋ねる。だが、社長は首を振った。
「分からん、分からん。俺にも何も分からん。ただ……そうだ、お前にも言っておく。もし何か、海の近くで真っ黒なものを見たら」
社長がそう言った、その瞬間だった。
不意に部屋の照明が消えた。
「あれ」
停電ですかね、と呟く。そう、呟いたまさに直後だ。
耳を潰すような大絶叫が屋敷の中をつんざいた。
「なん」
絶叫が再び響いた。何かモノが倒れたり、ドタドタと走る足音もする。
尋常な状況ではない――彼は瞬時にそう察した。
「社長、ここに居てください! 見てきます」
「待て、目を――」
ドアを開けて部屋の外に飛び出した。廊下は真っ黒だ。悲鳴と――そうだこれは悲鳴だ!――逃げ回るような足音が屋敷中で鳴り響いている。走り出そうとする。そこでふと、それらよりも更に異常なことに気付いた。
窓の外が暗い。
社長室に入る前、採光窓から差していた陽の光。それが消え失せている。真っ直ぐに続く廊下は壁に挟まれており、十メートル程先で左に折れているのだが、天井の照明は停電で説明がつくとして、まだ昼間である筈なのに正面の採光窓の外まで闇に包まれているのはどういう理由だ? 疑問を抱きながら彼は廊下を駆けた。
角を直角に曲がる。
そこで立ち止まった。
何か居る。
視認した瞬間、彼は全身が総毛立つのを感じた。寒くなど微塵も無かった筈なのに、両腕に鳥肌が立っている。
――なん、だ?
呟くことは出来なかった。声すら出せなかったと言い換えてもいい。それ程に、廊下の先に居たものは異様だった。
闇が形を持ったような真っ黒な全身。
腰の辺りまでは直立。そこから上は直径一メートル程の真球で、やはり影が抜け出したような黒色だ。
鍵穴に似ている、と彼は思った。鍵穴が実体を持って、身長二メートル程の大きな闇と化した。
そして、それが自分の正面に佇んでいる。
生き物の気配はしない。
ならば、何だ?
彼は社長室をちらりと見た。特段、意味のある行動では無かった。闇の中に立つ人型の深い闇――それから目を逸らしたかったのかもしれない。一時的にでも。もう一度目を向けたら消えているかも知れない。そんな希望を抱いたのかも知れない。だが結果として、それが致命的な判断ミスだった。
もう一度目を向けた時、それは眼前に居た。鼻先数十センチ程の場所に居た。
移動したのだ。一瞬で。
彼に迫っている。
何故?
何をするつもりだ?
――悲鳴が聞こえる。鼓動が全身を壊しそうな程に激しい。冷たい汗が背中を流れていく。その中で、闇を見つめる。球状の闇。
球状。
ああそうか。
これは目だ。目玉だ。目玉が俺を見ている。凝視している。理由? 決まっている。
俺を。
――全身の震えが頂点に達したとき、彼はこれまでのどれよりも巨大で絶望に満ちた悲鳴を聞いた。それは自らの喉から発せられていた。無意識に振り上げた手が眼前の闇に触れ、その瞬間、彼は父の言葉を思い出した。
『新鮮なものは間違いなく美味いもんだ』
――生きてるものは新鮮だよな。
闇に触れた手が音を立てて裂けた。次いで、引き寄せられるように自身の頭が闇へと飛び込んでいく。皮膚が裂けていく。最中、意識は壊れた機械のように同じ言葉を繰り返していた。
――生きてるものは――。





