フラワー - 第1話
「わたし、『トイレの花子さん』を燃やしに来たの」
あなたは誰、と尋ねた私に、その女の子は目的だけを答えた。だから私はただ、困った顔をするしかなかった。
時刻は恐らく、十六時頃。昼と夕の隙間に出来た、陽がぎりぎり陰っていない静かな時間。私はその時、木製の――遠慮なく言ってしまうと『小汚い』ドアの前に立っていた。古い、今は使われていない校舎の、三階西側。水が流れるかどうかも分からない、カビとアンモニアが混じった異臭の立ち込めるトイレの奥。手前から数えて三番目、一番奥に位置する個室の前。そこで私は、ドアの前で右手を掲げ、ノックの一歩手前にいたのだ。
そんな私のもとへ、彼女は唐突に現れた。
「そこで何してるの? 邪魔なんだけど」
棘のある言い方で告げた声の主は、きっと十二歳くらい――私と同じくらいの背格好の、上品な身なりの女の子だった。丈の長い真っ黒なスカートに白いブラウス、幅広のネクタイ、黒いカチューシャ。瞳は真っ黒で、髪は焦げ茶色。腰まである長い髪の先は、癖毛なのか少しハネている。真っ黒な手袋を嵌めながら、彼女はツカツカと私のもとへ歩いてきた。恐れるものなど何もない――そんな自信が、表面の磨き上げられた真っ赤なチャンキーヒールにも表れている。
突然の来客に正体を尋ねて、目的だけを応えられて――私はただ困惑していた。そうこうしている間に、その子は私の隣に立って、じっと私の顔を見つめる。穴が空きそうな程に。
「あなた、外人さん? それともハーフ? ここ、立ち入り禁止の筈だけど?」
「私は――」
「っていうかあーもう、ここホントくさい! くっさい! 汚いし薄汚いし汚いし臭いし! なんでそんなに平気な顔してられるの?」
尋ねてきたくせに、その子は耐えかねた様子で――心底嫌そうに――忌々しそうにトイレの内部を見回しながら怒鳴り散らした。
「そ、そりゃあ古いトイレだもの」
「古いからって手入れしなくていい理由にはなんないでしょ! たいまんよ、タイマン!」
無茶苦茶なことを言う子だなぁ、と私は苦笑した。古いから――使われていないから手入れの必要が無く、結果として荒れるのだ。ただ、そんな正論を告げても、彼女はきっと聞く耳を持たないだろう。……たぶん、だけど。
「えっと、それじゃ……鼻で息をしなかったらいいんじゃないかな」
「なんでわたしがトイレなんかに気を使わなきゃいけないのよ。トイレが気を遣って清潔になれば済む話だわ」
「む、無茶苦茶言うね?」
「不潔は犯罪。ナイチンゲールだってそう言うハズ。あーもういいや、さっさと燃やしちゃお」
まるで犬の散歩に出掛けようとするかのような軽い調子で、その子はそんな物騒なことを言った。だけど、次の瞬間。
ポン、と、弾けるような音を立てて、目の前に火の玉が現れた。
あまりにも唐突で、私はポカンと口を開けて、それを見つめていた。女の子は右の手のひらを――ウエイターが食器を重ねたトレイを持つように――天井へ向けていて、火の玉はその上に浮かんでいる。丁度、握り拳くらいの大きさのその火球は、まるで小さな太陽のように、超極小規模のプロミネンスを放っている。
熱い。
頬が灼けるようだった。
「退いて」
混乱している私を左手で掴んで、その子は扉の前から私を引き離した。そして、「えっ、えっ」と、事態の飲み込めない私を放って、女の子はボールでも放り投げるかのように、私の立っていた扉へと火を『投げた』。木製の扉は火の玉の着弾と同時に炎を纏い、激しく燃え上がる。
瞬く間に、焦げた臭いが古ぼけたトイレに充満した。私は慌てた。
「も、燃えちゃう! 火事! 火事になっちゃう!」
「ホラ、もっとこっちに来て、熱いから。で、あんた何してたの?」
「そんなこと言ってる場合じゃ――!」
「大丈夫よ、他に燃え移らないようにするから。ホラ」
「大丈夫って言っても――!」
わたわたと女の子と燃え盛る扉を交互に見比べていた私は、しかし、やがて異常に気付いた。炎は激しく木製の扉を包んでいる。だけど――確かに、女の子の言う通り――隣の個室に燃え移る様子も、天井に飛び火する様子も無い。ただただ、『扉だけ』が燃えている。
「ホラ、嘘じゃないでしょ? わたしが創った火なんだから、わたしが操れるに決まってるじゃない」
火を創った。……私は驚愕のまま、傍の女の子を改めて見つめた。そして尋ねた。
「あなた、何者なの?」
「あ、聞いちゃう? ふっふっふっ、聞いちゃったわね! じゃあ応えるしかないわよね! 応えるわ! 私こそ! 人呼んで常勝のまじゅちゅし!」
その子は噛み噛みでそう言うと、大げさに両腕を振り上げ、両の手のひらを空に――というより小汚い天井へと向けた。直後、ボン、と強く音がして、彼女の両手から大きな――大人の頭くらいはある――火炎球が出来上がる。
そして。
「天才霊能力者リョウ・アオキ! 人はわたしを……涼ちゃんとかこう……そんな感じで呼ぶわ! ……わたしに、燃やせないものは無し、よ」





