ホロウ - 第8話
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彼女の家には幾つかの合言葉がある。正確には暗黙の了解というべきかも知れない。
例えば。
「今日この後、お客さん来るから」
冷凍炒飯をレンジに入れていると、後方から母の声がした。彼女は小さく「はい」と返した。もそもそと昼食を腹の底に落としてから、奥の部屋へ移動する。
左手にある襖を開けて、押し入れの下段に入る。少しだけ――押し入れの中が真っ暗になってしまわないように――少しだけ襖が開いている状態にして、三角座りをする。
母の言葉を敢えて言語化するとこうなる。『用事が終わるまで私の目の前から消えろ』。この合言葉が発せられるのは、小学校が午前授業となる水曜日や土曜日が多かった。だから彼女は週に二回ほど、こうして部屋の奥で息を殺す。
昔は家から出て外で待っていた。だが二度の失敗を経て、彼女はこの方法こそが最も利口だと悟った。一度目の失敗は母と『お客さん』がまだ家に居るタイミングで帰ってきてしまった時。絡み合う二人を見て、彼女は汚物を見た時のような吐き気に襲われて再度外へ飛び出た。二度目は母も『お客さん』も家から出て行った結果、家に入れなくなってしまった時。翌日の朝方まで、開かないドアの前で三角座りをする羽目になった。
母の仕事はいわゆるホステスというヤツだ。夕暮れが近くなると顔を覆い隠すように化粧をして、甘ったるい香水をつけて家を出ていく。父は知らない。母が語ったことはないし、幼い頃に尋ねたらひどく叱られたので、もう知る術はないと思っている。分かっていることは一つだけ。父親と呼ばれる存在がこの木造アパートに帰ってくることはあり得ない。いや、もう一つ。自分という存在は母のそういった仕事によって存在を許されている。故に、このくたびれた町で何とか客を繋ごうと身を削る母に逆らってはならない。おぞましい声が聞こえた時は耳を塞ぐべきだし、自分に出来ることは『お客さん』と母が連れ立って早く外に出て行ってほしいと祈ることだけだ。
だからその日も、彼女は静かに押し入れの中に居た。押し黙って時間が過ぎることをただ待っていた。押し入れの外で呼び鈴が鳴る。母が猫撫で声で『お客さん』を迎え入れる。大げさな笑い声が響き、そして――彼女が耳を塞ごうとした時だった。
襖から微かに差し込んでいた光が、急に弱くなった。いや、消えた。
何だろう――疑問に思った彼女が襖に手を掛けようと手を伸ばした。その瞬間だった。
押し入れの外から短く母の声がした。聞いたことの無い声色だった。発している途中で喉を強く掴まれたような、錆びた水道の蛇口を急いで絞めたような、そんな声だ。
背筋がぞわりとした。
母のそれが悲鳴だと気づいたから。
そしてその後、方々から――遠くから近くから――それとほぼ同質の叫び声が聞こえてきたから。
木枯らしのように甲高い老人の声。喉から絞り出すような男性の大声。耳が痛くなる程に高いキーの女性の声。尾を引くような子供の声。それらは連鎖し、連なり、交わり、融け合った。結果、それらは巨大な怨嗟として彼女の臓腑を揺らした。
肌が冷たくなる。
吐く息と共に心臓が飛び出そうだ。それ程の脈動が全身を震わせていた。
外からは悲鳴のコーラスに伴って、警戒するように吠える犬の声や、バタバタと駆ける音、ガラスが砕ける音、車が壁にぶつかったような重低音などが押し合いへし合い彼女の耳へ飛び込んでくる。彼女は耳を防ぎたかった。声を上げてすべての音を消し去りたかった。せめて何が起きているのか知りたかった。母や皆は何に悲鳴を上げたのか? 町中の時が一斉に動き出したような悲鳴の濁流、その原因は? 知りたかった。伸ばした手を、襖の縁に掛けた手を引き戻したかった。だが、それは出来なかった。
彼女は視界の隅に見てしまったのだ。
押し入れの外、微かに開いた襖の前に、『誰か』が居る。
背格好は分からない。真っ黒な足だけが見える。絵具の黒を一面に塗りたくったような質の荒い闇。何か直立の物体の陰のようにも見えるが、彼女がここに入った時にそんなものは無かった。つまりそれは気づかぬ内に、一瞬の間に、押し入れの外に立っていた。
足音も無く、気配も無く。ただ黒く立ち尽くしている。
彼女は本能的に察した。
これに触れてはいけない。
体は硬直していた。凍り付いたように動かない。にも拘わらず、冷たい汗が肌のあらゆるところから染み出てくる。やめて、と彼女は自身に言いたかった。汗を出さないで。激しく脈打たないで。息を吐き出さないで。少しでも押し入れの外の『何か』に気付かれたら。
きっと。
――お母さんは?
どうなったのだろう、と彼女は逃げるように思考を展開した。外では悲鳴が相次いでいる。嵐のように。大きな悲鳴も小さな悲鳴も、そのどれもが内臓を鷲掴みにする切迫感に染まっている。何かが起きていることは間違いない。その『何か』を知るには出て行くしかない。
そんなこと、出来る筈がない。
彼女はようやく、押し入れの外から視線を外すことに成功する。異常な程に喉が渇いていた。恐怖が体を揺さぶろうとするのを、それを上回る本能的な力で何とか押し止める。体は硬直から逃れられない。だからせめて、外を見ないようにしなければ。そう自らに言い聞かせ、目線を眼前の押し入れの壁へと移動させる。外を見ないように。黒い陰を見ないように。視線を慎重に、懸命に壁へと動かす。
真っ黒な球体が自分を見つめていた。
思わず声を漏らしかけたが、喉が勝手に委縮した。今まで虚無だった筈の空間。逃げた視線のその先。そこに今、まるで押し入れの壁をすり抜けてやってきたかのように――彼女の眼前、鼻先数センチのところに球体が出現している。それは真っ黒だった。模様も無ければ動きもしない。ただ彼女の体躯をすっぽり呑み込めるような大きさはある。
そんな黒が、目の前に有る。
――彼女は確信していた。理屈はない。体全体が、本能が、そう叫んでいるというだけに過ぎない。だが間違いない。
見られている。
黒い球体は彼女を見つめている。
もし彼女が動いたなら。球体はきっと。
外からはまだ、無数の悲鳴と混乱の音が響いている。だが彼女――濱野真由は動けない。知っていたからだ。自分に出来ること。それは。
ただ、眼前の漆黒が消えてくれるよう、ひたすら祈るのみであるということを。





