ホロウ - 第7話
卓明は覚悟を決めて言った。そうだ、と彼は自らの決断を敢えて強く肯定する。彼女の友達もクラスメイトも自分も――きっと現れない彼女の父親だって――那奈があんなままでいいと思うヤツは、一人だっていない筈だ。
「宇苑兄ィ。那奈も家族なんだ。俺の家族なんだ。だからお願いだ。あいつを助けるの、協力してくれ!」
真っすぐに宇苑を見据え、伝える。あまりに都合のいい話だ。だけど現状、那奈を助ける方法は、きっとこれしかない。
「家族? ホントに?」
宇苑は不思議そうに問い返してくる。「さっき幼馴染って言ってたじゃん」と言い返してくる。
「それに国明もそんな感じで話してなかったよ? まさか『人類皆兄弟』とか言わないよね」
「そ……そりゃあそうさ! まだ兄貴にはちゃんと話せてなかったんだから」
「どういうこと?」
「つまり」
心が痛まないわけではない、しかし――卓明は良心の呵責を振り切るようにして、強く言い放った。
「俺、あいつと付き合って……いや。那奈は! 俺の婚約者なんだ!」
「な」
「まだ籍は入れてないけど! 事実上の妻です!!」
「なん……だと……」
宇苑はフラフラと後方へ数歩退いた。そのすぐ後ろでは地面にねじ込まれたままのスーツの男が微動だにせず転がっていて、躓かないかハラハラしたが、幸運なことにそれは杞憂に終わった。宇苑は両手で頭を抱え込み、立ち止まったのだ。
そして。
「……冗談じゃない……んだね?」
「妻です」
冗談ではないが嘘八百である。だが最早突き通すしかない。故に言い切った。直後。
「やだ」
「……ん、やだ?」
「やだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだ! 嫌だあそんなの!!!!」
突如、宇苑は両手をぶんぶんと振り回し、冷たいコンクリートの上にダイブした後ごろごろと大地を転がり始めた。奇行に茫然とする卓明の前で宇苑はごろごろと転がり続ける。そして喚く。やだやだやだやだやだやだやだやだやだやだ!!!
「ずるいずるいずるいよそんなのそんなのって無いよう!! 僕なんて女の子の手も握ったこと無いのに!! 高校生のくせに!! 高校生のくせに!!!」
いい大人が何を……と言いかけてやめた。恐らく今、宇苑に日本語は通じない。
「不純だぁ! 不公平だぁ! あんまりだぁ!!」
「いえ不純ではないです」
「男なら一生独り身を貫き通せよ通しなさいよ! この軟弱者!!」
「女の子の手も握ったことない男の方が軟弱者なのでは?」
「ぎゃあああああああ!!!!」
殺せ! と一際大きな声で叫んで、ようやく宇苑の奇行は止まった。床に突っ伏してプルプルと震えている。先ほど荒くれ者を二人、瞬きの合間に捻じ伏せた男とはとても思えない。生まれたての小鹿にも似た震え方だった。
「宇苑兄ィ」
暫く――といっても数秒も置かなかったが――して、卓明は宇苑にゆっくりと近づき、その肩に手を置いた。宇苑の震えが止まる。
「お願いだ。……助けてください」
「……僕の」
「なに?」
「僕の前で……イチャついちゃあ、やだよ……」
あんた幾つだよ、という言葉を卓明は呑み込んだ。現代社会が生み出した哀しきモンスター……しかし格別珍しいというわけでもない。男性の内、四人に一人は生涯未婚だという話も聞く。それに宇苑は自身の身の上も関係している。きっと彼が『目的』を果たした後であれば……。
卓明は改めて宇苑を見つめた。ぼさぼさの髪、ドロドロの靴、よれよれのTシャツ、流行からは程遠き柿色半纏……。
……今のままでは厳しいかもしれない。そんなしょうもないことを考えていた時だった。
突然に――まるで停電でも起きたかのように周囲が真っ暗になった。驚いて窓枠から外を見るが、その先にも闇が広がっている。
「何だこれ?」
卓明は困惑した。突然太陽が沈んだかのような暗さだ。しかし、今はまだ昼過ぎである。雲の陰に入ったわけでもなさそうだ。そんな現象とは比較にならない程に闇が濃い。夜が降って湧いた――奇妙だが、そんな表現が相応しいような闇だった。
「たっくん」
鋭い声が響いた。見ると直ぐ傍で宇苑が立ち上がっている。つい先ほどの狼狽ぶりが嘘のような眼光の鋭さだ。そんな彼へ声を掛けようとした、その瞬間だった。
遠くから悲鳴が響いてきた。





