ホロウ - 第6話
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「――って手紙を出してくれたじゃん? 僕、ちょっと前に久々にボス――あ、碓井のオッサンのことね――のところに寄ったから、その時に読ませてもらったんだ。いやーラッキーだったよもーホント、危うくスルーしちゃうところだった!」
そう言うと宇苑はあっはっはと大きく笑った。卓明は壁にもたれ掛かって座りつつ、手際よく自身の傷の手当てをしてくれる宇苑の姿をまんじりと見つめていた。
意外だったのだ。
「で、それから早速この辺りに向かってさ、着いたのがついさっきさ! 国明にも会ったよ! ナヲ婆の顔も見てきた……っつってもナヲ婆は熟睡してたけど! あ、ここに来たのは国明が心配してたからだよ。『この工場のことであんまりよくない噂を聞くから、良かったら卓明の様子を見に行ってくれないか』……ってさぁ、普通現地に着いたばっかりの人間にそんなこと頼むぅ? 自分はお祭りの準備があるからとか言ってたけど、アイツ僕が着いた時は寝っ転がってTV観てたよ? 何か昔より一層フワフワしたヤツになった気がするなぁ。まぁフワフワ加減では僕の方が圧倒的に上だけどね、何せ住所不定無職の幼卒だもんあっはっは! ……あれ、たっくんどしたの、そんな変な顔で僕のこと見て」
「いや……随分変わったなぁって思って」
卓明の記憶における宇苑は、いつも鋭い目をしていた。笑うことなど滅多になかった。傷だらけで、どこか近寄りがたく……しかし卓明や国明が困っていると、すっと手を貸してくれる。そんな少年だった。
それが今はどうだろう。けらけらと人懐っこく笑っている……。
「もしかして、昔言ってた『やらなきゃいけないこと』っていうのはもう終わったの?」
尋ねた瞬間、卓明の体はびくりと跳ねた。それは無意識が引き起こしたもので、反射的なものだっただろう。
「それはまだだ」
静かに言う宇苑の声――その鋭さは、かつて卓明らの元へやってきた時の彼と何ら変わっていなかった。凍てつくような、触れたものの皮膚に斬りつけるような冷たさ。成程、修行として祖母のナヲ子の元を訪れ、それから数か月共に暮らしていた頃から持っていた彼の胸の白刃は、年を重ねることで鞘へ納めることに成功したのだろう。だがその刃の鋭さは、あの頃から一切錆びていない。いやそれどころか――。
「ところでたっくん。何でこんなところでボコボコにされてたの? ここは悪の組織かなにかのアジトなの?」
「悪の組織って」
笑い出しそうになって、それから腫れあがった唇や紫色の痣が出来上がった腹部などが急に主張してきて、卓明は苦悶の声を漏らして体を丸めた。家に帰ったら叔父さんや叔母さんはなんと言うだろう。
「うん、まず病院に行こっか。話はそれからの方が良さそうだ。って言っても僕この辺のことあんまり覚えてないから、一旦家に帰る感じになるけど、暫く我慢できる?」
「うん、それは……あ」
「お?」
「ごめん、ダメだ。それより行かなきゃいけないところがあ――」
卓明は立ち上がろうとして、体中を走る激痛に言葉を失った。それでも暫く歯を食い縛って、全身の至る所で波打つ痛みを跳ね除けつつ、ゆっくりと膝を伸ばしていく。
「痛くない? 痛いよね? そのお守り、僕らならともかく普通の人にはそこまで早く効くわけじゃないし」
「いた……いけど、それより」
壁に手をついて何とか姿勢を保ちながら、卓明は自身がここに来た理由を手短に説明した。幼馴染が高校を突然辞めたこと。その幼馴染の父親の工場が現在地だということ。幼馴染が悪辣な金貸しのどら息子と共に車に乗って去ってしまったこと……。
「那奈を追わなきゃ」
「何で?」
「何でって……あんなの実質人身売買だ。何とかして助けなきゃ」
「何で?」
「宇苑兄ィ、俺の話聞いてる?」
「うん。時代劇みたいな話だなぁって思ってる」
「そうじゃなくてさ。いや俺もそう思ったけど!」
「どっちにしろ他人事でしょ?」
宇苑はさらりと言った。そのあまりにも自然な口調に、発言に、暫し卓明は口を開いたまま声を発することが出来なかった。
「借金のカタに売られようが内臓売り飛ばされようが、それはその子自身の問題だよ。その子の人生の問題は、その子自身にしか解決出来ない。たっくんが口出しするべきことじゃないし、出来ることでもない」
「だ……だけど、それじゃあいつが――」
「可哀想? 哀れ? じゃあたっくんはその子の人生をすべて背負い込める? ウン千万円の借金があったとして『じゃあ全額俺が払います』っつって今すぐ全額現金で出せる?」
無理でしょ、と宇苑は言った。
改めて。
宇苑の緩い顔の下に敷き詰められた、融けることのない冷淡さを、卓明は覗き見た気がした。
「お金だけじゃない。自分の将来とか、手に入れたいものとか――うまく言えないけど、例えそういうものを全て手放したとして、それでも達成できるかどうか怪しい。それが他人を助けるってことだと僕は思う。そのくらい、命というものは重い。
あ、一応言っておくけど冗談吐いてるつもり一ミリも無いからね、僕。オーケー?」
「それは」
分かる。……卓明には分かる。宇苑の過去を祖母経由で聞いたことがあるから。だから彼の言葉が――説得や誤魔化しの類ではなく、彼の人生を覆っている冷たい現実そのものであるということが――分かる。
……けれど。
「でも宇苑兄ィ」
それなら、と卓明は率直な疑問を口にした。
「何で宇苑兄ィは、俺を助けにここまで来てくれたの?」
「たっくんが手紙で書いてくれてたじゃん。僕らは家族だろ?」
なら助けるのは当然のことだよ――そう言って宇苑は嬉しそうに笑った。それはつまり――。
「さ、話は終わりだ。早くちゃんとした手当をしないと。立てる? この自慢の兄が背負っていこうか? お姫様抱っこの方が良い?」
「……ちょっとだけ待って」
ノリノリで言葉を続ける宇苑を制し、卓明は必死で考えた。宇苑の言葉はゴモットモ、だ。自分が那奈を追ってもどうにもならないだろう。何より、車に乗り込む前の那奈の無表情――あれはどう考えても卓明に助けを求めている様子では無かった。だから追っていったとして――再度彼女の前に立ったとして、那奈を連れ出せるとは到底思えない。
けれど。そう、『けれど』だ。
例え彼女が何も望んでいなかったとしても、これが自分勝手で子供じみた我儘でしかなかったとしても。
『突然ごめんなさい。今日までありがとうございました』
――あんな空虚な言葉しか放てなくなった那奈を、放り捨てることなど絶対に出来ない!
『卓明! 頑張れ!』
『頑張って!』
「あいつも家族なんだ」





